小説

『河童の国』佐々木卓也(『河童』)

「後で学校とは上手く交渉しておきます。形式的にはあなたが修学旅行に参加したようにしておきますね」
「そこまでしてぼくがここに居る必要なんてありませんよ」ぼくはホテル側が高校に高額の支払いをして裏工作することを想像した。「このホテルに皆の乗ったバスは来ない。それでも学校の指定したものと偽り僕一人を来させた。それだけでもまともなホテルのやり方とは思えませんね」
 中年男は困惑した表情を浮かべた。ぼくは勝手に状況が進んでいく不安を感じた。
「とにかく一度あなたの泊まる部屋へ行って下さい」と言って中年男はエレベーターのある場所を手で示した。そのドアは開いたままになっている。ピカピカに磨かれた床の上に花柄のマットが載っていた。
 いつもは慎重に行動するぼくが、極度の緊張状態のためかその言動に追随した。エレベーターの内側へ入ると同時に扉が閉まった。そこは静謐な空間だった。ボタンを押してもいないのに8階でエレベーターは止まった。外へ出るとぼくはルームキーを受け取っていないことに気付いた。自分の部屋がわからない。正面にある電話でフロントへ連絡すると、中年男の声がした。中年男はこれから鍵を届けますと言ってぼくの居場所を確認した。ぼくは絨毯の上に持参したボストンバッグを置き、中年男が来るのを待った。だがいつまで経っても誰も現れなかった。
 ぼくはもう一度フロントへ連絡しようか迷ったが、それをせずに長い廊下を奥に向かって進んだ。一番隅の部屋だけが他とはドアの色が違っていた。キラリと銀色に輝きを放っている。822と部屋番号があった。少女が書いたみたいに丸みのある数字表記。そこ以外の部屋に人は居ないようだ。まるで地の果てに取り残されたみたいな静寂さがある。ぼくのお腹から出たグゥーという音が廊下に響いた。
 天井の照明が突然消えた後、カチャリと鳴って、銀色のドアが僅かに開いた。その隙間から部屋の窓際に置物のような物体が見える。全長1メートル程の河童だった。それが入口ドアの方へ歩み寄り、ぼくの前で立ち止まっている。
「やっと着いたか」と河童が言った。
「修学旅行中の生徒と合流するつもりでした」とぼくは言った。
 河童は黒味を帯びた緑色の体をしていた。両目が卵みたいな形で、マスクを付けたような嘴をしている。細い髪の毛は黒く艶もあったが、頭上のまん丸い皿の部分だけツルツルしていた。河童は何か言おうとしてぼくを見据えた。背中に甲羅をしょっていて、全体的には中年のオッサンみたいに落ち着いている。
「妖怪の話をしようか」
「どうしてです?」とぼくは尋ねた。
「それがこの国を支配しているからさ」
 河童の口調はどこかで聞いたような懐かしさがあった。
「少し休ませてくれませんか?」
「ダメだ。君は早くこの国に慣れる必要がある」
 と言って河童はぼくを部屋の中へ招き入れた。
「ここがぼくの泊まる部屋なんですか?」

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