小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

 私はなんと言えばいいのかわからなかった。やっと出た言葉は予想に反して明るく響いた。
「ばっかじゃないの」
 私たちは音のしないリビングで二人、奇妙なくらい静かに泣いた。お互いが顔をふせて、まるで桜の花びらがひらひらと落ちるように泣いた。

 

「では、こちらが鍵です。なくすと大変なことになるので、合鍵を作ってそちらで出入りした方がいいですよ」
 岩田さんがにっこり笑いながら私に小さな鍵を二つ差し出した。
「牧瀬さんの新生活が、素晴らしいものになるように祈っています」
 常套句のようなその言葉に、しかし確かに温度を感じた。心の底から言ってくれている、ということがひしひしと伝わってくる。私はきちんと頭を下げてお礼を言った。
「お待たせ。行こうか」
「ああ。本当にあの物件でいいのか」
「いいんだって。あそこが気に入ったの。駄目だったらまた引っ越せばいいし」
「……そうか」
 父の運転する車に揺られながら私は新居を目指した。
「ねえ、一度部屋に荷物置いたら、そのまま家具見に行ってくれる?車がないと何も運べないし」
「ああ、いいよ」
「家電とベッドは今日の夕方届くし、ガス会社の立ち合いは明日だし……とりあえず今日はカーテンを買わなくちゃ。家の中丸見えじゃ恥ずかしいし」
「欲しいものがあったらなんでも買いなさい」
 父は短くそう言って、まぶしそうに眼を細めた。引っ越しに関わる全ての費用を出してくれるというのだ。私は必至でいらない、お金は貯めてあるから大丈夫だ、と言ったが、
「仕事を辞めたくなった時、最低でも一か月何もせずに過ごせるだけの貯えを持っておきなさい。経済的に貧しいと心が蝕まれていくよ。貯めていたお金はそのためにとっておきなさい」
 とピシャリと言ってそれ以上私の話を何も聞いてくれなくなった。父にもそういう時期があったのだろうか。そういうことを何も聞けずにこんなところまできてしまった。いつか聞くことができるだろうか。
「あ、桜」
 もうすぐで到着する、という時に、車窓から見えたのは一面を覆いつくす美しい桜並木だった。アパートの近くの川沿いは桜の名所らしかった。父の運転する車に揺られながら私は、その美しい花に見惚れていた。
 アパートの近くのコインパーキングに車を停めて、ひとまず家から持ってきた服やら本やらを運び込んでいると、どこかで聞いた声が聞こえてきた。相手もこちらを見て驚いたように目を丸めている。
「あれ?不動産屋で隣に座ってた人じゃないですかっ?」
 女の子はにこにこ人懐こい笑みでこちらを見ている。すると女の子のご両親がなんだなんだと部屋から出てきて、私の顔を見てあっ、と声を上げた。
「一人で部屋を見に来ていたから、しっかりした子だなあ、って思ってたんだよ!」

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