小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

 声をかけられてハッとした。公園のベンチで茫然と座っていた私に声をかけたのは岩田さんだった。小脇に封筒を挟んでいるし、スーツ姿なので仕事中だろう。
「偶然ですね、こんにちは。顔色が悪いですけど、大丈夫ですか?」
「は、はい……」
「……ちょっと待っていてくださいね」
 岩田さんは私の座っていたベンチの横に鞄を置くと、財布だけ取り出して自販機に走った。ペットボトルの水を片手に戻ってきて「はい、これどうぞ」と微笑む。
「え、いや、大丈夫です。すみません」
「いいんですよ、困ったときはお互い様ですから」
「お金、払います。ええと、お財布……」
「いいんですって。それより、ほら、どうぞ」
 私はなんだか本当に情けなくて消えてしまいたかった。ごめんなさい、ありがとう、と呟きながら水を口に含むと、不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
「書類の準備はできましたか?」
「あ、はい……あ、いえ、まだです。連帯保証人のサインが」
「ああ。昨日、お父様が来店されましたよ」
 はっ?と私は間抜けな声を出してしまった。父が?何故?岩田さんはなんとでもないように話を続けた。
「牧瀬さんがお決めになった物件についてあれこれ聞かれました。隣の家にはどんな人が住んでいるのかとか、川が近くにあるけど増水したりしないかとか、あとセキュリティのことについてとかも聞かれましたね。あれ?何も聞いてないんですか?」
「は、はい。初耳です」
「そうですか……あの、こんなこと、何も知らない他人に言われたらむかつくかもしれませんが」
 岩田さんはものすごく慎重に言葉を選んでいるように、
「良いお父様ですね。良いお父様に、見えました。私には」 
 私はその言葉にあふれる気遣いや優しさから岩田さんのことがなんとなくわかった気がした。色んな言葉や視線に傷ついてきた人特有の言葉だった。
「父は、何か言っていましたか」
「いやあ、渋い顔をされてましたよ。住むのは自分じゃないからとやかく言えないけれど、でももっと良い物件があるんじゃないかって。同じ値段でオートロックだったり、女性限定の場所はないのかって聞かれたんですけど、力及ばずで……申し訳ないです」
「いえ、いえ、ご親切にありがとうございます」
「俺、不動産会社の車に揺られて、泣いたことがあるんですよ」
 話の切り出し方があまりに唐突だったので驚いた。私は岩田さんの言葉の続きを待った。

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