小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

「いえ、行きます。よろしくお願いします」
 私はなるべくしっかりして見えるように、落ち着いた声色を心がけてそう返した。子供だから、女一人だから、そういう理由でなめられたくないと思ったのだ。少しでもおかしいと思ったらちゃんと聞こう。初期費用が不自然に高かったらつっこもう。ドキドキしながら胸の中でそう決意していると、私の緊張とは裏腹に担当の男の人はにっこり笑って、
「わかりました。では車のキーを取ってきます」
 と言った後に、「外は寒いですから、マフラー巻いたほうがいいですよ」と先ほどリュックにしまい込んだマフラーを示すようにそう言って再び微笑んだ。
 黒くて武骨な車。知らない人の車に一人で乗るなんてはじめてだったので緊張した。担当さんは岩田さんというらしい。もう五年この職業をしている、と言っていた。
「春から大学生ですか?」
「いえ……就職が決まっています」
「ああ、そうなんですか」
 岩田さんはそれ以上何も聞いてこなかった。
 最初に見た二件は、良くもなく悪くもなく、まあべつにここでもいいかな……くらいの感想しか思い浮かばなかった。岩田さんはとても親切で、物件の良いところも、逆に欠点もきちんと挙げてくれた。
「ここは大家さんが一階に住んでいるので、何かあればすぐにコミュニケーションがとれます。入居審査として大家さんと面接をしますので、問題がありそうな方は弾かれます」
「ただここはガスがプロパンなので、毎月ガス代が結構かかりますね」
「ここは追い炊きが使えないので、お湯をためたらすぐに入らないといけないですね」
「ただ最近はお風呂に入れるとお湯を温めてくれる機械も売っていますので、そういうものを活用できればかなりいいと思います」
 岩田さんの言うことはかなり適格だった。私ひとりじゃ絶対に気づけないことをきちんとアドバイスしてくれた。はあ、そうですか、とか、へえ、とか、気の抜けた返事しかできない私にもきちんと対応してくれた。
 一番最後に見た物件を、私は一目で気に入った。鉄筋コンクリート造の築三十年。見た目はそれほど綺麗じゃないが、内装はとても良かった。白地に薄い緑の模様の入った壁紙。窓を開けると遠くに電車が走っているのが見渡せる。三階建ての建物の三階、しかも角部屋にあるのも良い。近くに川が流れていて、その流れが見えるのも気に入った。
「ここは先日開いたばかりで、まだハウスクリーニングが入れていないんですよ」
「私、ここがいいです」
「え?」
「ここに決めます。契約書下さい」
 私の迷いのない目を見て、岩田さんはちょっと何かを言いたそうにしていたが、そうですか、ありがとうございますと頭を下げた。
 一週間後に再度来店の予約をいれて、その際に書類一式を持っていくことになった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9