小説

『勇者はおばけの如く』鈴木沙弥香(『桃太郎』)

 僕の中から溢れ出た生暖かい体液が足元に大きな水溜りを作った。僅かに漂うアンモニア臭が、教室を支配していた制汗スプレーの爽やかな匂いを一瞬で嫌な臭いへと変化させた。夏でなれれば良かったのに。ふざけて僕の頭に冷水を浴びせた同級生達もみんな唖然としている。そりゃそうだ。まさかこんなことで僕が失禁をするなんて、誰も予想をしていなかったに違いない。いつのように僕の過剰すぎる反応を笑うだけのはずだったのだろう。
 僕の体内から出きった体液がゆっくり這う蛇のように女子グループの足元へ伸びていく。
「きもーい!!」
 僕が故意で汚したわけではないのに。
 動けずにいる僕を見て、次第に教室に笑い声が響きはじめた。額から脂汗が流れ落ちる。笑い声がぐるぐると頭の中をめぐり出す。視界がぼやけてくる。クラクラ、ユラユラ、音も視界も何もかもが歪みだす。正常なのは鼻だけで、変わらず漂うアンモニア臭を感じながら僕は意識を飛ばした。きっとこの時が、14年間生きて来た中でもっとも思い出したくない、死んでしまいたくなる記憶に違いない。それでも僕は、あの時から3ヶ月経った今でも毎日このことを夢に見る。そして決まって失禁した時に目が醒めるのだ。起きて額を拭って、尋常じゃない汗を感じては、あれは夢では無かったのだと思い知らされる。毎日、毎日、よく僕は干からびずに生きているな。
「竜、起きて!」
 ノックもせず入って来たデリカシーの無いお母さんは、僕の布団を勢いよくはいだ。
「今日良い天気だよー」
 お母さんが開けたカーテンの先には青空が広がっている。笑顔で鼻歌を歌いながら部屋から出て行くお母さんを見送り、僕はもう一度窓の外を見つめた。眩しい。

 
 死ぬと覚悟をしていたのは何も失禁事件があったからでは無い。失禁事件が僕の生きる気力を奪った原因ではあるが、そもそも僕はずっと以前から死にたかったのだ。それは小学生の頃はまだおふざけでいられた僕へのいじりが、中学に入ると次第にいじめへと変わったことを自覚してしまったから。先生も面倒臭そうな顔をして僕のことを無視していた。だから誰かに相談をしたところで、この生活から抜け出せるわけなんてないのだともう何もかも諦めていたのだ。
 体調が悪いです、と言えば誰もなにも気に留めない。だから僕は簡単に授業を抜け出すことができた。廊下を歩きながら、もうここを通ることは無いだろうと考える。最期を迎える場所は体育館倉庫と決まっている。散々ここで蹴られ、殴られ、辱めを受けた。ここで死んで、ここに取り憑いて、あいつらがやって来たら化けて出てやろう。
 体操用のマットを広げてその上に座り込む。夏が終わってまだ間もないからか、蒸されそうになるほど中は暑い。熱中症になって死んでしまうのではないだろうか。流石にそんな死に方は無様だ。絶対に嫌だ。
 僕は自宅から持って来た果物ナイフをポケットから取り出した。緊張しているのか手が僅かに震えていた。刃先を胸に近づけて大きく息を吸う。目を閉じてナイフを持つ手に力を込めた。ピリッとした痛みが胸に広がる。もっと力を込めなくては。僕はもう一度大きく深呼吸をする。冷や汗が頬を伝った。

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