小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

 春から勤務予定の会社の名前を書いたり、身分証明書や通帳、銀行印などを準備していると、一枚の紙がぺらっと封筒から落ちた。
「……そうだよなあ」
 紙には【身元保証人の連絡先及びサイン】と大仰なフォントで書かれている。そりゃそうだ。こういうものの提出が必要なんてことはいくらぼやっとしている私にもわかる。
 私は父と話をしたくなかった。そうか、と言われるのが怖かった。父の言う「そうか」は無関心の表れだ。そういうものに触れるのが嫌だった。
 けれど、これでもう最後なのだ。この書類にサインをもらえれば、私たちはもう無理に一緒にいなくてよくなる。父だってせいせいするはずだ。私は自分でもわかるくらい可愛くない子供だった。女の子の思春期というのを体現したかのように父に冷たくあたった。こんなかわいくない娘、出て行ってもらったほうが父だってほっとするだろう。
「ねえ、あのさ」
 お父さん、と本人に対して呼びかけるのになんとなく抵抗があるので、私はいつもねえ、とか、ちょっと、などの出だしで声をかける。買ってきたお惣菜を冷蔵庫にいれながら父は、なんだ、と短く言った。この人の言葉はいつも短い。
「前に行ったよね。出て行くって。それで、物件決まったから、ここにサインしてほしいんだけど」
「……身元保証人か」
「うん。べつに迷惑はかけない。家賃滞納してこっちに連絡がくるようなヘマへ絶対にしない。……それ、一週間後に不動産会社に出さなきゃいけないから、それまでに返してね」
 よろしくお願いしますとか、そういうことを言わなきゃいけないのに、言えなかった。
 父はその日、そうか、とすら言わなかった。

 

「……桜?」
 お金がないのでリサイクルショップで家具全般をそろえようと企てていた私は、ぼうっとしながら家具を眺めていた。ドレッサーほしいけど幅とるよなあとか、収納スペースないからタンスは必須だなあ、とか考えていると、ものすごく懐かしい声が聞こえた気がして固まった。
「ご、ごめんなさい。人違いだったみたい」
 私が返事をしないのを見て、その女性は申し訳なさそうに頭を下げた。
 知ってるい、この人を。少し垂れた大きな瞳、暖かい声、低い背。
「……お母さん?」
 去って行くその人の背中にそっと声をかけると、勢いよく振り向いた表情が少しずつ歪んで、桜、桜、と大きな声で泣きだした。平日の昼間のリサイクルショップ。人が全然いないのが救いだった。私たちは古びた匂いのする、一度どこかの家庭ですでに役目を終えた家具たちの間で抱きしめ合った。

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