小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

 記憶の母は大きくて、いつも私を守ってくれたのに、再会した母はとても小さく弱弱しく見えた。そのギャップが私の心をものすごく苦しめた。時間というどうしようもないものが私たちの間に十年単位で流れたのだ。
「お母さん……お母さん、」
 私はもう何が何だかわからなくて胸がいっぱいになってしまった。喉が潰されたように痛い。胸が苦しい。こんな気持ちは初めてだった。
「桜、ごめんね、ごめんね。一日だってあなたを忘れた日はないのよ。本当よ」
「なら、ならどうして」
 その先の言葉は出なかった。どうして迎えにきてくれなかったのだ。こんなに悲しかったのに。一人でずっと寂しかったのに。
 母の後ろで不思議そうな顔をした少年が顔をのぞかせた。十歳だかそこらの小さな男の子。私は頭を鈍器で思い切り殴られたような気持ちになった。
「お母さん、その人誰?」
「春斗、なんでもないのよ。お父さんのところへ戻っていてくれる?」
「うん……わかった」
 男の子は威嚇するように私を睨みつけた。俺のお母さんをいじめるなよとでもいうような目つきだった。私はその子供が本当に憎らしく思えてぶん殴ってやりたくなった。そういう凶暴な感情が自分の中にあったのだということに驚いたし、そうか、こうやって人は人を殺すのかもしれない、と妙に冷静にそんなことを考えた。
「桜、元気そうで安心したわ。お父さんとは仲良くやれている?」
「……あの子、誰」
 母は気まずそうに顔を歪めて、それから深く息を吐きだしながら「私の子よ」と言った。
 ああそう。そうだったのか。母が家を出たのはそういうわけだったのだ。父が嫌で出たんじゃない。他に好きな人ができて、私と父なんてどうでもよくなったのだ。私は目の前にいる母のことすらひっぱたきたくなった。胸の中で少女が泣いている。小学生の時の自分だ。お母さん、お母さんと母を呼んで毎晩泣いた。私は自分のことが本当に可哀想で惨めでくだらない人間のように思えて、その全ての感情が悲しみに変換されていてもたってもいられなくなった。
「桜!」
 逃げるように母の前から立ち去った。春斗、なんでもないのよ。少年に優しく囁く母の声が頭から離れない。
 私は母にとって“なんでもない”のだ。その事実がただ苦しかった。

 
 さくら さくら
 野山も里も
 見渡す限り
 霞か雲か

「牧瀬さん?」

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