尚も話し続ける父。私は驚いて何も言えなくなってしまった。遠目で見えるメモ帳は文字がびっしりと埋め尽くされていた。父の言葉が耳の奥でこだまする。低くて聞き取りやすい落ち着いた声。
なんだろう、前にもこういうことがあった。ぼやっとする私に父が何かを言っている。違う、歌だ。お世辞にもうまいとは言えない歌。覚えている。どうして今思い出すんだ。嫌だ、もう泣きたくない。ただそれだけなのに。
「桜、桜、野山も里も、見渡す限り、霞か雲か、朝日に匂う……」
小学生の時、自分の名前の意味をお父さんお母さんに聞いてみましょう、という宿題が出た。私はしぶしぶ父に聞きに行った。どうせたいした理由じゃないだろう、春生まれだし、桜が咲く時期に生まれたからとか、そういう理由だろう。
けれど父は、嫌そうな顔で宿題のプリントを握りしめる生意気な私にきちんと向き直って答えてくれた。
「さくら、さくら、って童謡、学校で習っただろう」
「……うん。音楽の授業で習った」
「父さん、あの歌の美しさが好きなんだ。お前が夏生まれでも、秋や冬に生まれていても、きっと桜と名付けたよ」
そこで私は少し笑った。なにそれ、と言うと父は嬉しそうに微笑んだ。どうして忘れていたんだろう、と考えて、きっと幼い心ではもう耐えきれないくらい母がいなくなったのが悲しくて辛くて、そういう父の優しさのようなものを受け入れられなかったのだと思った。
父はそうして歌を歌った。私が産まれた日のことを懐かしむように。私はその歌声をいっそ鮮明すぎるくらいに思い出して、胸が張り裂けてしまいそうだった。
「……あのね、お父さん」
「ん?」
父は自分の話が中断されたのを気にも留めず、「どうした」と短く言った。
「今日、お母さんに会った。偶然出くわした。それで、知らない小さな男の子を連れていたの」
「……そうか」
父の「そうか」を久しぶりに聞いた気がする。
「なぜ言わなかったの。お母さんが出て行ったのは自分のせいじゃないって。お母さんが浮気したからだって。言ってくれれば私だって!」
「桜は、お母さんが好きだったろう。……言えば、悲しむと思ったんだ」
父は言って、
「桜の思い出の中で、母親との記憶がいつまでも優しいものであってほしいと思ったんだ。悲しい時や辛い時、母親の顔を思い浮かべれば気持ちがすっと落ち着いたり、せめてそういう、優しい思い出になってくれればって……そう思ったんだ。……けれど、かえってお前を傷つけてしまったね」
と、声を震わせながらそう続けた。机の上に置いた両手がきつく握られて震えている。見てはいけない。もう何年もずっと一人で耐えてきた人の涙を見るなんて私にはできない。