小説

『さくら』森な子(『さくら、さくら』)

「牧瀬さんと同い年くらいの時、両親が不仲だったので家を出ざるを得なかったんです。誰にも相談できなくて、一人で全部決めました。心細くて、悲しくて。知らない街を走る知らない車に揺られていたら、ものすごく苦しくなって」
「……そうなんですか」
「だから牧瀬さんもそうかなって思ったんです。一番最初に店に入ってきたときの不安そうな表情とか、裏腹に絶対やり遂げてやるぞっていう、いっそやけくそなくらいの決意にあふれた目とか見ていたら、勝手に仲間意識持っちゃって」
「……父とは、ほとんど話をしないんです。父は私に無関心だと、思って、いたから」
 最後の方をはぽそぽそと呟いたのでもしかしたら岩田さんに届かなかったかもしれない。けれど彼はにっこり笑って、
「ちゃんとお話をしてみたらどうですか。どうせ家を出るんです、心残りを全部片づけてしまった方が楽ですよ」
 と言った。

 
 家に帰ると仕事に行っているはずの父がリビングの椅子に座っていたのでぎょっとした。いつもだったら絶対に近寄らない。けれど頭の中で岩田さんの言葉が響いていた。ちゃんとお話をしてみたらどうですか。確かに、そうかもしれない。私はもうずっと逃げ続けていた。母がいなくなったことを全部父のせいにしていた。父を恨むと楽だったから。自分の中の悲しいという気持ちややるせなさを、父に対する怒りに変換させていた。もしかしたら父は母のことを話したかったのかもしれない。私がつっぱねてしまったから話せなかったのかもしれない。そういうことを、ちゃんと考えなければいけない。家を出るなら、なおさら。
「……お父さん」
 呼びかけると父は驚いたように肩を揺らした。正面に座る。いつの間にか髪には白髪が増えて、心なしか背も縮んだような気がするし、目じりには皺が増えた。こんなにまじまじと父を見たのは久しぶりだった。
「……桜、お帰り」
「サイン、してくれた?」
「……そのことなんだが」
 父はちょっと待ってろと言って一度立ち上がった。なんだ、なにをするつもりなんだ。私は黙って父を待った。やがてメモ帳を片手に戻ってきた父は、深く呼吸を吐いた後に言葉を連ねだした。
「お前が言っていた部屋の周りを見てきたんだ。人通りの多い道に面しているのは良いが、セキュリティが甘いように見えた。それに、駐輪場にステッカーのたくさん貼られたバイクが停まっていた。危ない奴が住んでいるんじゃないのか?一度管理会社に周囲の住人のことを訊いたほうがいい。それに、川が近くにあるが、大雨が降った時危ないんじゃないか?それから、出窓がついていたが、真下に室外機が三台くらいあった。あれは夏や冬ほかの住人がエアコンを使ったら桜の部屋にかなり響くんじゃないか?あと……」

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