小説

『GUM』松野志部彦(『貨幣』)

 私達はしばらくの間、主の日常にぼんやりと耳を傾けていました。もちろん、いつまた我々の出番が来るかわかりませんから、完全に気を緩めていたわけではありません。
 主の少年は桂木という名前のようでした。御学友の方々からそう呼ばれていたのです。
 桂木氏には少々下品な一面があるようで、ここで申し上げるのも憚られるような冗談を繰り返してげらげら笑っていました。想像していた理想の少年像からあまりにかけ離れていたので、私はすっかり閉口してしまいました。
「素敵な御主人だ」
 あの悲観的な仲間が皮肉を漏らします。
 その桂木氏の指が突然ポケットへ滑り込んできたので、私達の間に緊張が走りました。
「梅ガム食う?」
 桂木氏は私達の寝床を取り出し、一番上にいた仲間を振って飛び出させます。
「サンキュー」
 桂木氏の御学友が手を伸ばしました。
 引き抜かれたのは、私達の中でもとりわけ無口な仲間でした。彼はその体を掴まれる瞬間も声を上げず、実に堂々とした態度で桂木氏の御学友の口内へ飛び込んでいきました。
 私達はそれを見届け、彼の立派な精神を心から羨望しました。どんな運命が待ち受けようとけして動じず、ただ厳粛に受け止める彼は、まさにガムの鑑でした。

 やがて終業の鐘が鳴り、桂木氏は御学友と一緒に教室を後にしました。「ダリィ、ダリィ」と呟いている割には全くだるそうでないのが不思議です。
 しかし、ここで事態は思わぬ運びとなりました。
 桂木氏が、とある女子生徒と鉢合わせたのです。
 察するに、桂木氏はどうもその女子生徒へ想いを寄せているらしく、それまでの下品さが一変、さも教養を身につけて育ってきたかのような調子で話しこみ始めました。その上擦りするような猫なで声に、私達は思わず失笑してしまいました。私達は皆さんのように耳や脳といった肉体的な器官を持ち合わせてはおりませんが、もしも備えていれば、ぐずぐずに腐ってもげ落ちていたに違いありません。
 そして、独りで舞い上がった桂木氏が、思いもよらぬ奇行を演じたのです。
「増田さん、よかったらこれ、梅ガムあげる」
 彼は、なんと私達を箱ごと増田女史へ譲ったのです。いったい何を考えているんでしょうか、この阿呆は。
 増田女史とそのお友達は、先程から桂木氏の付き纏いに内心辟易しているようでしたが、断り切れなかったらしく、おずおずと私達を受け取りました。桂木氏は上機嫌に御学友達の許へ戻っていってしまいます。梅ガムごときで増田女史の気を釣れたと思い込んでいるようでした。筋金入りの阿呆でした。

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