そのとき、平田の携帯電話が鳴った。電話に出ると母親からだった。母親は「お前の会社からヘルパーさんが派遣されてきた。とても親切な人ですごく助かっている。会社の人にとても感謝していると伝えてくれ」と涙ながらに言っていた。
電話が終わった平田は、母親の話を聞いて茫然としていたが、我に返って、社長と人事部長に、母親がヘルパーの派遣にとても感謝していたと伝えて礼を言った。社長と人事部長は笑顔で喜んでいた。
「君が辞める必要はないんだ。身の回りのサポートは我々に任せてくれ。君はこの会社で君のやりたいようにずっと長く働き続けてくれればいい」
人事部長が平田を見ながら言った。
次に社長が、拳をぐっと握りしめて、
「平田君、我々は大企業に比べれば吹けば飛ぶような小さな会社だ。船に例えれば、大企業の船は大型タンカーであり豪華客船だ。一方、我々の乗る舟はちっぽけな小舟、いや泥でできた泥舟と言ったほうがいいかもしれない。しかし、社員の結束で固められた我々の泥舟はそう簡単には沈まないぞ!」
と力強く宣言した。
「平田君、これからも頼むぞ」
人事部長が平田の肩に手を置いた。もはや平田は、「わかりました。がんばります」としか言えなかった。
社長と人事部長は会議室を出て行った。
平田はようやく気がついた。
「もはや、この泥舟を降りる、いや、この会社を辞めることはできないんだ……」
平田は茫然としながらつぶやいた。
「この一見居心地のいい泥舟は、一回乗ったら絶対に沈まない、いや、絶対に降りられないんだ……」
平田はその場で動くことができず、抜け殻のようになっていた。
しかし、しばらくすると、急に顔を上げて「絶対に沈まないんだ」と何度もつぶやいてニヤリと笑った。
そして、自分の席に戻って、淡々と仕事を始めた。
それから10年後、平田は人事部長になっていた。
今日は入社希望者の面接の日だ。希望者の前で平田が力強く言った。
「わが社にとって、すべての社員は同じ船に乗る乗組員、家族も同然です。社員を第一に考えるわが社では、勤務条件や福利厚生、何より社員やその家族との絆を大切にしています。社員が安心して長く働くことができる会社です。ぜひ、我々といっしょにこの会社で働きましょう!」