平田は他の課でもいろいろとクレームがあるという話を聞いた。その理由はやはり前回同席したときと同じように「お客さんが契約を履行しない場合にはその家族に連絡して問題を解決する」というやり方に対するクレームのようだった。
平田はそのやり方にも違和感を覚えつつも、「銀行員時代は、銀行に融資をストップされた会社の社長が自殺した、銀行が建物を差し押さえて住む家を失って家族が路頭に迷った、なんていうひどい話がたくさんあった。それに比べればこの会社のやり方はそんなにひどくない」と言い聞かせて自分を納得させることにした。
その後は毎日普通に働いていた。特に何の不満もなかった。しかし、確かに会社の待遇や福利厚生は充実していたが、何か常に監視されていて事あるごとに干渉されているような気がして、平田は会社にどこか違和感を覚えることが多くなり、それがストレスになっていった。
「どうもこの会社のやり方は何かがおかしい。やはり、この会社はいつか沈んでしまう泥舟なのか。もし、泥舟なら沈む前に早めに降りたほうがいいんじゃないか」
と事あるごとに考えるようになった。
そして、「待遇はいいしぜいたくは言っていられない」と思いつつも、「泥舟が沈む前に早めに降りるべきだ。何かきっかけがあったらもう辞めよう」と思うようになった。
そんなある日、親戚から平田の母親が病気で手術をすることになったと連絡があった。平田は休みを取って実家に帰った。実家に着くと、会社からお見舞い品が届いていた。ここまで来ると、平田はありがたさというよりも恐ろしさを感じた。
幸い母親の手術は無事に成功して、命に別状はなかった。平田はひと安心したが、医者には「後遺症が多少残るため、一人暮らしを続けるにはヘルパーを頼んだほうがいい」とアドバイスされた。
医者の話を聞いて、正直今の会社にずっと違和感を覚えていた平田は、これを機に会社を辞めて実家に帰り母親の介護をしようと決心した。
実家から戻った平田は、休んでいる間にたまっていた仕事を何日間かかけて片付けて落ち着いた後で、直属の上司に「実家に戻って母親の介護をするため会社を辞める」と伝えた。驚いた上司は「そんなにあわてて決断するな。まあ少し落ち着いて考えろ」とあわてながら答えた。
次の日、社長と人事部長が平田のもとにやって来た。社長が来たと聞いて平田はびっくりした。平田は会議室に通された。
平田は「辞めるのを引き留める気か。しかし、今回は母親の介護という強い理由がある。どんな説得にも応じないぞ」と心に誓った。
会議室に入ると、人事部長が口を開いた。「やはり引き留める気だな。さあ、何でも言って来い!」と心の中で身構えた。
「数日前から実家のお母さんのところにヘルパーを派遣している」
人事部長の口から全く予想もしていなかったことを言われたので、平田は「えっ?」と驚くだけで、何も言うことができなかった。