小説

『沈まない泥舟』渡辺鷹志(『かちかち山』)

 平田の担当は、お客さんからの申し込みを受けて、それを審査の部署に回し、審査が終わった後で、貸し付けを行うというところまでだった。そのお金の返済を受けたり、返済が遅れたお金の回収を行うのはまた別の部署だった。それを聞いて平田はほっとした。銀行員時代には、貸し付けたお金の回収が精神的にかなりきつい仕事だったからだ。
 平田が担当したお客さんはほとんどが感じのいい人だった。「この人たちは本当にお金に困っている人ではなくて、年金支給日前に急に入用になったとかそんな人たちなのかな」くらいに考えていた。
 銀行に勤めていた平田の説明はわかりやすいとお客さんからの評判もよかった。また、業務に関する知識や経験があり、しかも人がいい平田は、課内の人間からも頼りにされていた。
 勤務時間や休日も求人情報に書いてあったとおりだった。平田を含めほとんどすべての社員はほぼ毎日定時に退社していた。休日出勤などもなかった。それでいて会社の業績は悪くないようだった。社員もみんないい人で、銀行員時代のような変な派閥争いのようなこともなく、ストレスを感じることもほとんどなかった。
 平田は仕事にやりがいを感じて一生懸命働いた。
 お客さんからの評判もよく、真面目な仕事ぶりで課内の人間からも信頼されていた平田のことを上の人間は高く評価して、平田は勤めて半年あまりで課長に昇進した。
 地位や給料が上がったのもうれしかったが、何よりお客さんや社員から信頼されているのがうれしかった。平田は今までの人生で一番の充実感を覚えていた。

 ある日、課長に昇進してますますはりきって仕事をしていた平田のもとに、実家に一人でいる母親から電話があった。
 母親は「お前の会社の総務部長さんからうちに電話が来た。お前が会社の中心としてがんばって働いているって言っていたぞ。そうそう、私あてにおみやげも贈ってくれたんだよ。いい会社で働いているんだな、がんばれよ」とうれしそうに言った。
 平田は母親が自分のことで喜んでいるのはうれしかったが、「なぜ会社から実家に電話なんてしたんだ?」と怪訝に思って、母親に電話をした総務部長に確認した。
 総務部長は「わが社は社員の心身の健康管理や福利厚生を何より大切にしている。社員のがんばっている姿を家族へ報告するのもその一環だ」と誇らしげに言った。
「でも、本人の了解もなしに家族に連絡するなんて……」
 と平田が訊くと、総務部長は、
「そのことか。それなら、入社時に、社員のがんばりを伝えるために会社から社員の家族に連絡をすることがある、と説明して書類にサインをしてもらったはずだぞ」
 と答えて、その書類を平田に見せた。その書類は入社の時に提出を求められた書類で、会社の決まりなどが何ページにも渡って細かく書かれたものだった。その書類を見ると、確かに最後のほうに小さな字で総務部長が話したようなことが書いてあって、書類には平田のサインもあった。平田はその書類を見て「そういえばこんなのがあったかも」と思ったが、内容を細かくは読んでいなかったので、そんなことが書かれているとは気づかなかった。

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