小説

『沈まない泥舟』渡辺鷹志(『かちかち山』)

「安心しろ。変なことは言わないよ。あくまで社員のがんばっている姿を家族に伝えて、社員と家族に喜んでもらうためだよ」
 と総務部長が笑いながら言ったので、平田は多少違和感を覚えつつも「まあ、いいか」と思ってその場を去った。

 それから数日後、いつものように仕事をしていると、年配の男性のお客さんがひどく怒った様子で会社にやって来た。そのお客さんは、以前に平田が貸し付けを行ったお客さんだった。
 この会社では、会社に意見を言いに来た人(と言っているが、要するに怒っていたり、クレームにつけに来た人)がやって来た場合には、何課の担当の業務かに関わらず「お客様相談課」という部署に案内するように決まっていた。そして、そこの担当課長が対応することになっていた。
 受付の担当者がそのお客さんを「お客様相談課」に案内した際に、平田は「自分が担当したお客さんなので同席したい」とお客様相談課の担当課長に申し出た。担当課長は怪訝な表情をしたが、「まあいいでしょう」と言って、平田の同席を了承した。
 お客様相談課に案内されたお客さんは、用意された椅子に座るや否や「なぜ、金を借りたことを家族に教えた!」と平田と担当課長を怒鳴りつけた。その表情は、貸し付けを受けるときに窓口に来てニコニコしていたときとは全くの別人だった。
 担当課長は「最初はお金のことなどは一切お話する気はありませんでした。ただ、返済の期限が来たのに何の連絡もないので、心配になってご家族に連絡しただけです」と答えた。
「じゃあ、何で借金のことがばれたんだ!」
 お客さんはさらに声を上げて怒鳴った。
「ご家族が何の用事かとお聞きされたのですが、私は「いえ大丈夫です、また連絡します」とだけ答えました。ところが、ご家族からいいから教えてくれと何度も言われましたので、やむなくお客さんに借金があることと期限が来てもそれが返済されていないことをお教えしました」
 担当課長は丁寧にそして冷静に答えた。
「そんなことをしていいと思っているのか。ルール違反じゃないのか!」
 お客さんはさらに怒りの声を上げた。すると、担当課長は冷静な表情のままで、そのお客さんの書いた申込書をお客さんの目の前に出して、ある部分を指さした。そこには下のほうに小さな字で「期限までに返済されないときは、家族に連絡し、もし家族から用件を求められたときは貸し付けのことを家族に伝える」と書かれていた。
「この書類に基づき、我々はご家族に話をしました。その結果、ご家族が代わりに返済してくれたんです。やさしいご家族ですね。感動しました」
 担当課長が笑顔で言った。
「感動だと? おかげで俺の信用はがた落ちだ。家から出て行けとまで言われたんぞ!」
 お客さんは担当課長の言葉と表情に逆上して、
「まちの困っている人を助けるだと? お前らの口車にのせられて……いや、お前らが作った泥舟にまんまと乗せられて沈められたようなもんだ! 善人ぶって人を陥れるやり方をしているお前らが乗っている泥舟もいつか沈んでしまえ!」
と体を震わせながら大声で怒鳴り散らした。

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