小説

『みせもの』ひろくん(『鶴の恩返し』)

 彼女が飲み終え、蛇を口から抜いた時、口のまわりに血が滴った。
 白い顔に赤い血、黒い歯で笑う、鮮烈な光景。それは、珠子の心にトラウマのように残った。
 珠子の三〇年で、一番色濃い記憶だった。

 珠子は、携帯電話を取り出し、ネットで「見世物小屋 蛇女」と検索した。興行主にコンタクトを取ると、翌日、都内の住宅街の外れにある一軒家に案内された。瓦屋根の、純和風の家だ。
 玄間の引き戸の脇に「江田」と書かれた表札があるのを珠子は確認する。引き戸はすんなり開いた。するとその音を聞いて、黒猫が猛スピードで珠子の股をくぐって逃げだした。
「あら綺麗なお嬢さんじゃないの。いやー驚いた。蛇、大丈夫?」
 と、言いながら、奥から六〇代くらいのふくよかな女性が歩いて来る。お団子に結った頭には、白髪が不均等に交じっている。
「あのさ、ウチは来るもの拒まず去るもの追わずだから何も聞かないけど、甘やかしたりはしはいよ」
 と、江田さんは言った。
 珠子は電話で江田さんと話した時から、その威勢のいい標準語が気に入っていた。なんでも、江田さんは二代目らしく、口上は母から口伝えで教わったとの事で、珠子はとても懐かしい気持ちになった。
 珠子は「応接室」と称する六畳の和室に通された。江田さんは、お茶を淹れた後、
「最近はね、動物愛護とかで蛇食べるのやりにくくなっちゃってさ、もう時間の問題だよ」
 と、漆塗りの器にクッキーを盛りながら言った。
「そうなんですか…。蛇、食べれるうちに食べてみせます。どうかお願いします。」
 と、珠子は声を張って、頭を下げた。
 誰も、珠子の詳しい事情を聞こうとする者はいなかった。江田さんの話によると、お節っちゃんは二〇年前に既に亡くなっていた。
 その後、お雪ちゃんという、アングラ劇団の女優さんがやってきて芸が復活し、三年前に彼女が嫁いだのを最後に、蛇を食べる芸人がいなくなってしまったらしい。ただ、それ以上の事は知らないという。
 見世物小屋では、素性を明かす事はご法度であると、お祭りの噂では聞いていた。珠子はそれを好都合だと思った。
 例え抗癌剤で食べ物を受け付けなくても、珠子には隠し通さねばならない理由がある。自分の姿を心に記憶して貰うには、これしかないと思っていた。それが例えトラウマだろうが構わない、と。
 珠子は早速、二週間後に開催される、都内の公園で開かれる桜まつりで働かせて貰える事となった。それからは旅巡業のように、桜前線とともに全国の祭りで興行をして行くらしい。
 翌日、一度、小さな縞蛇を使って練習をした。珠子はグロテスクな物は割と平気で、何度か指を噛まれはしたものの、やせ我慢は得意だった。
 早速、珠子には「お珠ちゃん」という芸名が付いた。何のひねりもないあだ名には慣れっこだったが、「白玉団子」よりもストレートな名前を付ける人を珠子はこの時、初めて見た。

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