小説

『アリとキリギリス』朝霞(『アリとキリギリス』)

「最初、僕は自分のためだけに歌っていた。けれど、君が聴いてくれた。僕は嬉しかったんだ。世界と磨耗して消えてしまうような僕だけのための振動を、僕と君の歌にしてくれたのは、君なんだよ」
 でも、本当なのかもしれません。「キリギリス」は突飛なことばかり言うと思っていましたが、それは、巣を離れない「アリ」である自分が知っていることが少なすぎるから、そう感じるのかもしれません。
 信じたいな。世界がそんな風に、素敵にできているものなら。
「アリ」はそう思いました。

 
「今日の風の匂いには金木犀が混じっていたね。気づいた?」
「アリ」がうきうき尋ねると、「キリギリス」はぼんやりした顔をして、うん、と答えました。
 うきうきすることはそれだけではありません。「アリ」は勢い込んで報告しました。
「最近の僕は君の歌を聴くために、毎日早く仕事を終わらせて帰るようになったんだ。後輩も、なるべく早く帰ってもらうようにした。そうしたら皆、就業時間内に仕事を終えるようになってね。僕、今日、褒められちゃったよ。君に出会ってから、全部がうまく回り始めた気がするな。ずっとこのまま続くといいな!」
 そう、よかった、という「キリギリス」の返事には、いつもの明るい調子がありません。「アリ」が訝って黙ると、二人の間に冷たい風が吹きました。
「キリギリス」は黙ったまま、ギターの弦をぽつり、ぽつり、弾(はじ)いていましたが、やがて、ギターを手癖で弾くような何気ない調子でぽつり、ぽつり、話し始めました。
「君には黙っていたけど、『キリギリス』は寿命が一年もない。大人になった『キリギリス』は冬を越せない。……僕はもうすぐ死ぬんだと思う」
 世界から、つん、と音が消えたような心持ちで「アリ」は「キリギリス」を見つめました。「キリギリス」の声だけ、静かに降るように地面に落ちました。
「『せんせい』は僕を外に放すとき、『やりたいように精一杯生きなさい』って言ってくれた。だから僕は歌って暮らした。でも本当にこれで良かったのかな。わからないよ」
言って、「アリ」に力なく笑いかけました。
「君は前に『アリ』が歌えないことを残念がっていたけど、その代わりに働くことができるよね。将来を見据えて、嫌なことも我慢して、こつこつ努力して、大きな成果を出すことができる。それは『アリ』に生まれた君の素晴らしい才能だと思うんだ。少なくとも、僕にはできない。できなかった。生まれたばかりの僕にとって、世界は何もかも新しくて、もうあんまり眩しくて、歌わずにいられなかった。歌う以外の生き方は選べなかった。やりたいことだけやって、やりたくないことはやらずに済むように逃げてきたら、何でかな、ときどき酷く虚しいんだ。満たされているはずなのに、足りないものなんだね。やりたいことは全部やったのに、」
 休符がひとつ。
「死ぬのはこわいな」
「キリギリス」が話し終えても、「アリ」は俯いて何も言えずにいましたが、決然と顔を上げると「キリギリス」に近づきました。

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