私のように経験の乏しい人間では、この音楽に似合うような小説は書けないな。小野リサのアルバム「Dream」に似合うような小説は。このアルバムは、あまりに軽やかで上品で繊細で甘く優しい。それは、器量のある男女の爽やかな夜の情事を思わせる。或いは、うだるような熱気の中を歩く、真夏の午後の遊歩道。私が、須藤さんにどんな小説を書いてほしいかなんて、リクエストを聞いたのがそもそもの間違いだった。くそ。イメージがまとまらない。
そんなことを考えながら、PCのiTunesで小野リサのアルバム「Dream」を聴いている。閉店間際の、夜のドトールコーヒー。カプチーノは三杯目に突入している。
そして、三杯目のカプチーノが飲み終わろうとしているときに、こんな書き出しを思いついた。
燃えるような陽射しに照らされている真夏の午後の遊歩道は、道行く誰もが夢の中を彷徨っているようで、ただただ、熱気に身を任せながら前へ前へと歩を進めていた。桟橋では、白いYシャツに黒いスカートに身を包んだ女性が一人、傘を差して、川辺を眺めている。夕涼みならぬ、昼涼みと言ったところか。葬式の帰りなのかもしれない。きっと、故人の過去のことでも思い出しているのだろう。或いは、夫に先立たれて、未亡人になったばかりか。そんな想像よりも、気になったことがもう一つあった。誰かに似ている。いったい誰だろう。私は、そんなことを思いながら、熱気で緩む頭の糸をピンと引っ張り、彼女の方に近づいていく。
よし。いけそうだ。このまま行こう。そう思い、一服したのちに再び続きを書きだした。
そこまで遠い昔に会った人じゃないな。多分、大学時代。そうだ、黒崎だ! クラスが一緒だった。黒崎は私のことを覚えているだろうか。いや、多分覚えてはいるだろうが、改めて話すことは何もないかもしれないな。私はそう思って、少しばかり歩調を速め、彼女の横を通り過ぎようとした。黒崎。私が心の中で、スターリンとあだ名して呼んでいた女だ。どこまでも、底知れず心の暗い女だった。話をして、こちらが心を開いて、どんなに明るく接しても、どこかで私をハメようとしていた。具体的なエピソードだってある。授業で「日本の美」についてのプレゼンをしなさいと言う、教授からの話だったので、三島由紀夫のことを調査してきて、発表したら、その日から黒崎に影で、三島と呼ばれるようになった。なんでも、自分に都合のいいように考える女だった。ほかにもある。静かな教室で数学の勉強していたら、私の席の後ろに座って、わざと私の気が散るようにこれみよがしに、三島由紀夫は変態マゾだ、という話を他の女としたりしていた。他にもある――。
そう考えていると、彼女のいる方から白い手が伸びてきて、私を闇の中に引きずり込んだ。
気が付くと、夜になっていた。満月が空にかかっている、薄曇りの夜だ。彼女は桟橋の欄干に腰を掛けていて、川辺に目を落としながら私に語りかけた。あたしね。この桟橋からの眺めが好きなんだ。綺麗で、上品だから。この人工的な橋も好き。ドイツの建築家がデザインした橋なんだって。いかにも人間の叡智って感じでしょ。飲む? 水。それを聞いて、私は彼女から透明な水の入ったペットボトルを受け取った。確かに。この桟橋は自然に由来する快楽を得るために人間が作ったみたいな橋だね。人間に都合のいい自然、まぁ、つまり人工のことなんだけど。そう言って、ペットボトルの水を飲むと、喉に熱い液体が通っていくのを感じた。思わず、私は大きく咳き込んだ。テキーラか。ふふ。本当の水はこっちよ。おいで。そう言って、彼女は、私を誘い出した。どれだけ強い酒を飲ませたんだ。一口飲んだだけで、頭がクラクラする。ダメだ。今にも倒れそうだ。暗い桟橋をふらついた足で歩いて行く。気が付いて目線を上にあげると、彼女は月光が照らす中、橋の欄干の上に立ち全裸になり水を体に浴びていた。黒髪が月光に照らされ、輝き、緩やかな南西風にそよいでいる。透明な水が、うなじから膨らんだ胸、そして薄い茂みを通り、脚を伝っていく。私は彼女の足の先から伝う水を飲むことを想像した。その想像を打ち消すように大声で、水を寄越せ、と叫ぶと、彼女は上目遣いに白い歯をむき出しにして、ニッと笑った。