小説

『アリとキリギリス』朝霞(『アリとキリギリス』)

 突然「キリギリス」に尋ねられて、「アリ」は飛び上がりました。「キリギリス」は笑って言いました。
「『キリギリス』は『アリ』よりも耳が良いから、誰か居るのが音でわかるんだよ。目はあまりよく見えないけどね」
「……僕も目は良くないけど、『アリ』は匂いで相手を判別するから、まさか音だけで僕とわかるとは思わなかったな」
「アリ」は観念して、花の陰から顔を出しました。
「元気そうで良かった。しばらく来なかったから本当に心配したんだ。君に聴いてほしい新曲がたくさんできたよ」
 どうやら怒ってはいないようです。「アリ」は、ほっと息をつくと、用意してきた花の種や葉っぱなんかをおずおず差し出しました。
「これ、食べ物なんだけど、良かったら貰ってくれないか」
「……どうしたの、こんなにたくさん」
 いつも歌を聴かせてもらうお礼に、と言い掛けて、「アリ」は口を噤みました。「キリギリス」の声音が沈んでいることに気づいたのです。「キリギリス」は言いました。
「受け取れないよ、お礼なんて。僕はお礼が目当てに歌っているわけじゃないんだ。僕が歌いたいから歌っていただけさ」
 どうしよう、かえって困らせてしまったようです。「アリ」は慌てて言いました。
「君がお礼目当てだなんて思っちゃいないよ。僕が君にあげたいんだ。だって僕は、君からもう、貰っちゃったんだから。僕ね、君が歌うのを聴くとすごく楽しくて、嬉しいんだ。僕はこの、君から貰った、きらきら光る素敵な何かを返したい。君みたいに歌えたら、歌で気持ちを表すところかもしれないけれど、『アリ』には歌うための器官がない。残念だけど歌えない。こんな僕が君に返せる、最上の物が食べ物なんだ。どうか受け取ってくれまいか」
「……そんなに言ってくれると、僕が神様にでもなったみたいだな」
「キリギリス」は恥ずかしそうに項垂れました。
「ありがとう、いただくよ。ごめんね、僕は意固地になっていた。でも、この量は多いかな」
 それほど多くは見えない量の食べ物を掲げると、「キリギリス」は悪戯っぽく笑いました。
「食べきれずに腐らせてしまうならもったいない。同じ分量でも一度に貰うのじゃなくて、これからは少しずつ毎日貰う、っていうのは?」
「えっ、それは、毎日君に会えるっていうこと?」
「うん。今までは気が向いたときだけ数日置きに歌っていたけど、これからは毎日。だめ?」
「あー、毎日、毎日聴けるとか、え、ムリ、いやムリじゃないけど毎日来るけど、あー、毎日、あーっ、そっか、毎日、あー、毎日、」
「落ち着いて?」
 舞い上がる「アリ」に「キリギリス」は言いました。
「貰っているのは僕の方も同じだよ」
「アリ」が首を傾げます。「キリギリス」は微笑んで続けました。
「音っていうのは振動なんだ。空気を震わせて、その振動が耳に届いて音になる。誰の耳にも届かなければ、延々と空気を伝い続けて、いつか摩擦の抵抗で消えてしまう。聞いてくれる相手がいて初めて、音は音として成立するんだ」
 本当でしょうか。俄かには信じられません。まるで荒唐無稽な話です。

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