小説

『アプリ越しの愛』星野梨音(『痴人の愛』)

 考えてみると、私と鈴木くんの関係は既にその成り立ちから違っていました。私が初めて鈴木くんに出会ったのは、大学一年生になったばかりの春でした。何月の何日ということまでは覚えていませんが、とにかくその時分、彼は広い講義室の一番前の席に座り講義を受けていました。私も彼と同じ学科の生徒でしたが、何しろ私は授業を聞かずに内輪ではしゃいでいるというような女子グループの一員でしたので、鈴木君とはちょうど対角線になる教室の後方に座っていました。その日普段のように大学内のミスターコンテストに出場したアカペラサークルの先輩について語っていたように思います。一人黙々と講義を受けている鈴木君と私の間には、距離にして測れない大きな隔たりがありました。
 私が鈴木君に引きつけられた理由、それは簡単に言ってしまうならば、その手の美しさです。大きな声で私語をしすぎて教授から注意を受けた私は、スマホを机の下でいじる合間に鈴木君の真上にある時計をちらりちらりと見ていました。そのときに、ふと、この世のものとは思えないような透き通った肌、精巧な美術品のような彼の指先が目に入ったのです。私は目の前がクラクラする思いがしました。これほどまで美しい手は見たことがありません。また、私の全生涯をかけても、あのような手に出会えるわけがないという気がしてまいりました。
「美香、どうしたの?」驚きと感動が、顔に表れてしまっていたのでしょう。友だちの芽生がそう尋ねます。
「いや、時間経ってなさすぎてびっくりしただけ。」

 ボサボサと寝癖のついた髪に、10年は着てそうに見えるカーディガン。鈴木くんの身なりは、おしゃれからはほど遠いものでした。私は、そのときにぼんやりと思ったのです。私はこの大学生活において、鈴木くんと親睦を深め、彼を彼の手の崇高さに似合うような男前にしてあげたいと。友だちとして彼が男前になるのを見守りながら、たまにあの手で触れてもらうようなことができれば、私はそれで十分な満足を得ることができるでしょう。
 私の考えは一人妄想の範囲で完結し、男前になった鈴木くんを頭に思い描きながらもゆうに一年過ぎました。鈴木くんは授業が終わると長い前髪で目を隠し、うつむき気味でそそくさと教室を出て行くのです。彼が帰る際に私の真横を通ったことがありますが、私はなんとも情けなく声をかけることもできませんでした。私が仲間内で話している言葉で彼に話しかけて、鈴木くんを驚かせてしまわないかということが気がかりでならなかったのです。鈴木くんはいつも一人で授業を受けていましたが、ときどき隣に座る男の子もまた、鈴木くんのようにあまり喋らない性格をしているようで、鈴木くんはそういった友人を好むように思われました。
 男らしく、おしゃれな鈴木くんを何度も目の前に描いては、思いの深さだけが日本海に沈みそうになる頃、ついにチャンスが訪れました。それは、私の友だちが使っていた出会い系アプリを通じてのことになります。そのアプリは、アプリ使用者のうち3キロメートル以内にいる者の顔写真と自己紹介を示し、マッチングさせるというものでした。「いいね」というマークを送り合うことで、メッセージの送り合いが可能となるのです。
「この人、どっかで見たことあるんだよなあ。」
 そう言うと、授業中にアプリを開いていた芽生が私に画面を見せました。私には、すぐにそれが彼に間違いのないことは分かったのですが、芽生に私の妄想を知られることが恐ろしく、
「私もどっかで見たことある気がする。」と言ったのみでした。芽生は、茶髪を派手なネイルをした手に巻き付けつつ、
「こんな大人しそうな子も出会い系やるなんて、時代だね。」と言いました。私はその言い方が達観した大人のように聞こえてなんとも面白おかしかったものですから、ついついクスクスと笑っていました。

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