小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

 俺の頭にはいつだって鈴の引くダニー・ボーイが響いていた。美しい旋律。可哀想だから、という理由だけで俺に近づいた鈴はどうしてあの曲を弾いたのだろう。そういうことを、一つも聞けずにいつの間にかこんなところまできてしまった。
 ダブリン行きの飛行機の搭乗口の前で俺は、そのメモをぎゅっとにぎり閉めた。鈴に会いたい!と思った。会って、きちんと話をしたい。俺と父のことをいつしかうらやましそうに見ていた鈴。教室にいてもいつも心ここにあらずで、どこか別の世界を見ていた鈴。
「ダニー、行くよ」
 父が心配そうな顔でこちらを見ている。そうだ、行くのだ、帰るのだ、父と。母のいるあの故郷へ。ようやくまた三人で暮らせるようになったのだ。
「父さん、ごめん……まだ帰れない。ごめん」
 父は驚いた顔で俺を見た。繰り返します、二十二時初ダブリン行き、ご搭乗のお客様――。そんなアナウンスを聞きながら俺は走り出した。空港で、乗るはずの飛行機をすっぽかして、女の子のために走り出す、なんて、安いドラマみたいだ、と頭の片隅でぼんやり考えて少し笑った。
 タクシーに飛び乗って、もう帰ることはないだろうと思っていた家にたどり着く。そこからどこへ行けばいいのかわからない。思えば俺は鈴の家を知らない。鈴が離していた両親、という人たちがどんな人だったのかも知らない。鈴は俺の不自由な日本語もちゃんと聞いて受け止めてくれていたのに、俺は鈴のことを何も理解できていない。
 情けない気持ちでとぼとぼ歩いていると、かつて通っていた中学校にたどり着いた。なぜだかわからないが心臓がばくばくと痛いくらいに波打っている。まさか、と思いながら顔を上げると、三階の一番奥の教室に人影が見えた。
 防犯のために明かりがつけっぱなしになっている校内。どこからか入れる場所はないだろうか、と探していると、体育館の近くの非常口の扉があきっぱなしだった。俺が中学生の時からずっと、ここの鍵は壊れている。緊張しながら夜の学校に足を踏み入れる。
 何もかもあの頃のままだ。下手糞な書初めがずらりと並ぶ灰色の廊下。雑巾やらスポンジやらが乱雑に置かれた手洗い場。古びた木の下駄箱、奇妙なくらい足音の響きやすい階段。
 階段を上がるにつれて音が聞こえてきた。美しい旋律。三階にたどり着く。一番奥の教室は――音楽室。
 鈴はそこにいた。長かった髪をばっさりと耳の下あたりまで切って、あの時と同じようにピアノに向き合っていた。俺はその姿を見た時、神様、と胸のなかでそんな大きすぎるものに縋った。ありがとうございます、この人にまた会わせてくれて、この美しい音色を聞かせてくれて。
「鈴」
 久しぶりに名前を呼ぶと、鈴はゆっくりと顔を上げてこちらを見た。驚いたように目を見開いた後、呆れたような、いっそ軽蔑したような視線を俺に向ける。
「ダン、あなた今日、故郷へ帰るって聞いていたけど」
「鈴は俺のこと、なんでも知っているね。俺は鈴のことなにも知らないのに」

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