小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

 その後、二人でそっち夜の校舎を抜けて、夢見心地で夜道を歩いた。
「いつも学校に忍び込んでいるの?」
「まさか。今日はじめてよ。あなたが日本を発つって風のうわさで聞いて、あなたのお父さんに頼んで手紙をポケットに忍ばせてもらって、そうしたらなんだか、あの音楽室でピアノを弾きたくなったの」
「え、父さんに頼んだの?」
「ええ。聞いてないの?」
「手紙を読んで、すぐに飛び出してきちゃったから……」
 鈴は呆れた、というような顔をした。
「じゃあ父さん、薄々感づいているだろうな。うわあ、恥ずかしい……」
「私の分も、どうか謝っておいてね。あなたの息子さんをそそのかしてごめんなさいって」
 鈴はそう言って柔らかく笑った。月の光の下できらきら光る大きな瞳を心底綺麗だと思った。
「鈴、あのさ」
「ん?」
「一緒に行こう、俺の故郷へ。きっと君も気に入る」
 前を歩く鈴は振り向かない。しばらく黙って歩いた後、静かな声で「ばかね」と言って、
「行けないわ、私。せっかくまた話せてお別れは寂しいけれど、でも、」
 それから鈴は髪を耳にかけて、耳の裏を指先で撫でながら言った。
「私、もう大丈夫だもの。あなたがいなくなっても、ちゃんとやれるわ」
 何もわかっていないと思っていたけど、一つあったなあ、わかること。俺はふふ、と声に出して笑ってしまった。鈴は眉をひそめて「なに笑ってるの」と言った。
 さて、どうやって説得しようか。と考えながら俺は、鈴にむかって一歩踏み出した。

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