小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

 ダンへ
  最愛のお母さまにはもう会えたでしょうか。
  あなたへ酷いことを言ってしまったことを、心からお詫び申し上げます。
  どうか美しい故郷で幸せに暮らしてください。
  きっと私たちはもう二度と会うことはないでしょう。
  せめて遠くの小さな国の、更に小さな田舎町から、あなたの幸せを祈らせてください。

  
 色んな国の言葉が飛び交う雑然とした成田空港。コーヒーを買ったので支払いをしようとポケットの中の財布を探していたら、一枚のメモ用紙がひらりと落ちてきた。
「あの、お客様?」
 そのメモに連なる、丸っこくて何かに怯えるように小さな文字を見ながら俺は息をのんだ。怪訝そうな顔で店員が声をかけてきたので、慌てて立ち上がり「す、すみません」と混乱する頭でなんとか支払いをすませた。
 頭の中で美しいピアノの音色が響いている。細くて白い指が鍵盤の上をすべると魔法にかかったように虹色の旋律が響きだす。あの音を聞くと俺は、その優しい響きややるせなさのようなものがものすごく悲しく思えて、いつも涙ぐんでしまう。
「ダブリン空港行き、二十二時発ご搭乗のお客様、ご搭乗ゲートまでお越しください」
 よく通る綺麗な声でアナウンスが響いた。ああ、そうだ、行くのだ。いや、違う。帰るのだ、故郷に。もうずっと帰りたくて仕方がなかった場所へ。胸を張って。

 
 鈴とはじめて出会ったのは小学校四年生の時だった。五歳の時に両親が離婚し、父とともに故郷のアイルランドを出て日本へきた。母は泣いた。俺のことを強く抱きしめてものすごく泣いた。この子と離れるくらいなら死んでやる、とまで言っていたが、元々精神的に不安定なところがあったので、そういうことも考慮して父は俺を母から離した。心中でもされるのではないかと思ったのだろう。
 優しい父は母から俺を引き離したことにも、俺を遠く離れた国へつれてきてしまったことにも、胸を痛めているようだった。ダニー、ごめんな、と言いながらよく俺の頭を撫でた。
「大丈夫だよ、父さん。大きくなったら一緒にまたアイルランドへ帰ろう。俺がつれていってあげる。そして、二人を仲直りさせてあげるよ」
 子供ながらに精いっぱい気をつかってそう言ってみせると、父は涙を押し殺したようなぐしゃぐしゃの顔で笑った。
 髪や目や肌の色が違うだけなのに、俺は日本の学校でものすごく浮いた。いじめられるようなことこそなかったが、皆が俺から距離をおいた。数年日本語の学校に通ってものすごく必死で覚えた言葉も、カタコトだったので伝わらず、曖昧に笑われて流されたりして、そういうことにものすごく傷ついた。
 どうして教えてくれなのだろう。曖昧に微笑んで流すことが優しさだとでも思っているのだろうか。おかしな日本語を使ってしまった時はすぐにわかる。みんなちょっと困った顔をして笑う。そうして、俺の言ったことがなかったことにされる。そんなのは全然優しさなんかじゃないのに。
 けれど、鈴は違った。

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