小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

「おいしかた、じゃなくて、おいしかった、ね」
 鈴は言った。給食の片づけをしている時に、ほかの男子に言った言葉をたまたま聞いていたのだろう。驚いてまっすぐに鈴を見ると、まったく悪気がない、というのが十分すぎるくらいに伝わる澄んだ目で俺を見ていた。
「瀬尾、うるせーな。ダンは日本語まだうまくねーんだからいいだろうが」
「でも、そんなことを言っていたら、ダニエルくんの日本語、いつまでたっても上手くならないでしょう」
 せお、さん。小さな声で名前を呼ぶと、なに?とこっちを見た。
「ありがとう、おいしかった、ね。給食」
 俺が言うと、瀬尾さん、もとい鈴はちょっと驚いたような顔をした後、ぱっと花が咲いたように笑って、
「ね!毎日揚げパンが出ればいいのにね」
 と言った。

 それから俺たちはよく話をするようになった。ダニエルくん、はいつしかダンに、瀬尾さん、はいつしか鈴に。呼び名が親しくなるくらいたくさん話をして、いつの間にか一番の仲良しになっていた。
「ダンは、どこからきたの?」
 社会の教科書の一番後ろのページにある世界地図を広げながら、鈴はある日そう言った。俺は、えっと、と指をさそうとしてあれっ?と首を傾げた。俺が持っている世界地図ではアイルランドが中央にかまえているのに、教科書の地図は日本が真ん中にいる。
「どうしたの?」
「俺の、持ってるやつと、違う」
「違うって?」
「えっと……あった!」
 アイルランドは一番西のはじのほうにいた。ここだよ、と差すと、鈴は「へえーっ」と感心したように声をあげた。
「こんなに遠いところからきたんだ。すごいなあ。アイルランドはどんなところなの?」
「どんな……すごく、綺麗なところ」
 上手に言葉が出ずに伝えきれなくてもどかしい。本当はもっとたくさん伝えたいのに。バグパイプの音が鳴り響くのどかな谷間。バラの花が咲く庭園。賑やかな街並みに優しい大人たち。そういうことを言いたいのに言葉を知らない。いっそイライラしながら言葉を探していると、鈴は俺の目を見て、
「そう、本当に良いところなのね。大丈夫、伝わった」
 と、柔らかく笑った。不思議なことに、鈴と俺の間には言葉にせずとも通じるなにか不思議なものがあった。それは日本語がまだ達者じゃない俺からしたら本当に心地の良いことだった。
 今まで一度も友達を家につれてきたりしなかったことを父は本当に心配していたようで、だから鈴をはじめて家に招いた時は感動して涙を流した。子供が十人いたって食べきれないような量のお菓子やジュースを出して、しきりに「ダニーは学校ではどう?みんなと仲良くできている?」ときいた。恥ずかしいのでやめてほしかったが、そこには俺に対する愛情があるということをわかっていたのでどうにも止めに入れなかった。
 鈴は笑いながら父と俺を見ていたが、その瞳がたまにものすごく羨ましそうなふうに見えた。

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