小説

『ダニー・ボーイ』森な子(『ダニー・ボーイ』)

 なにも。強調してそう言うと、鈴は困ったように少し笑った。
「手紙を読んだんだ。飛行機に乗る直前」
「あちゃあ」
「二度と会うことはないでしょう、なんて、どうしてそんなことを言うんだ」
 俺が言うと、鈴はやはり困ったように「だって本当のことでしょう」と言った。
「向こうについてから見てほしかったな、あの手紙。そうしたらきっと、色んな事をさ、思い出って言葉に収束させることができたでしょう」
「できない、そんなこと。向こうについてからあの手紙を読んだとしてもきっと俺は日本に戻って会いにきていた」
「なぜ?私はあなたに酷いことを言ったのに」
 鈴の目はまっすぐに俺を見ていた。
「酷いことなんて言われていない。あの言葉は全部嘘だったから。全部嘘で、言いたくない言葉を無理やり言っていたから」
「どうしてそう思うの?」
「わからない。でも、鈴はさ、俺に、両親に可哀そうな子に優しくしてあげないって言われたから近づいた、って言ったよな」
「うん」
「鈴は親切だったけど、べつに優しくなかったから。いつも」
 言うと、鈴はびっくりしたような顔をして、それから大きな声で笑った。俺も笑った。しばらく二人で笑っていたが、鈴はやがて顔をふせて、今度は泣き出してしまった。
「ごめんなさい、ダン」
「どうして謝るんだ」
「私ずっと、羨ましかったの。あなたが」
 鈴は言った。
「お父さんに愛されて、恋しいと思えるお母さんが遠くに住んでいるあなたが。私本当は両親なんていないの。見栄を張ったの。可哀想な子だって思われるのが嫌で。グランドピアノだって持っていなかった。おもちゃみたいだって自分でけなしたキーボードのおかげでピアノが上手になったのよ。おじいちゃんとおばあちゃんと暮らしていて、二人はとっても優しいわ。けれどそういうことを誰にも言えなかった。育ててくれたおじいちゃんとおばあちゃんに申し訳なかったし、それにあなたに自分のことを一つも話せないのが苦しかった」
 鈴はぽろぽろと大粒の涙をこぼした。ごめんなさい、としきりに謝りながら頭を下げた。
 俺はなんだか鈴の悲しみが伝染してきたように胸の内からじくじくとしたものがこみあげてきて、一緒になって涙をこぼした。俺たちは泣いた。わんわん泣いた。そうしているうちになんだか疲れてきて、疲れてくると急に冷静になって、お互い顔を見合わせて今度は笑った。
「鈴、また弾いてよ。ダニー・ボーイを」
 俺が言うと鈴はゆっくり頷いて、鍵盤に指を添えた。美しい旋律。もうずっと遠い昔、母がよく口ずさんだメロディ。鈴はどんな気持ちでこの曲を練習したのだろう。はじめて弾いてみた時、どんな顔をしていたのだろう。俺に、聞かせてやりたいと思ってくれていたのだろうか。きっとそうだ。そう考えると胸がぽかぽかと温かくなった。

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