小説

『腫れ物地獄と純粋めいた愛』あざらし白書(『笠地蔵』)

「今日は出かけないよ。爺さん、来なかったからお礼の品はなしさ」
「あら、珍しいのね」と、キョウコは嫌がるアイジをテーブル脇につけた子供用の椅子に座らせた。
「お爺さんがこないと、いろいろ不都合なことがあるんじゃないの?」
「さあ、どうなんだろう。来ないことなんて今までなかったし、そんなこと考えたこともなかったな」
ほうばった厚揚げの汁を飛ばさないように、僕は手で口を押さえながら喋った。アイジは自分だけに出されたおかゆを大急ぎで口に運んでいる。僕はその愛らしい姿を見て、キョウコを見て、やはり幸せを感じて微笑んだ。
「なによ、どうかした?」とキョウコは怪訝そうに笑った。僕は静かに首を横に振って、「幸せだなと思って」と答えた。
あたたかい晩御飯、笑い合う家族、オレンジ色のランプ、厚揚げからあがる香ばしい匂いの湯気。なんて素敵な夜なんだろう、と僕は嘆息した。
「アイジ、美味しい?」と僕は問いかけた。アイジは大げさにうなずいた。それからもう一度茶碗に目を落とし、口いっぱいにおかゆをほうばると、ニコニコとしながらこちらを向いて、「パパ、アトデ、ゴロゴロ、シヨッカ」と大きな声で笑った。
その「シヨッカ」の言葉に、僕は昼間のあっちゃんを思い出して、ドクン、と心臓が大きく鼓動を打った。僕とキョウコとアイジと。その幸せな家族のテーブルの一席空いたところに、いないはずのあっちゃんが座っているような気がして、僕は急にソワソワとしてしまった。
「どうかした?」と、キョウコはアイジを見て、僕を見て、アイジを見ながら言った。
「いや、なんでもないよ。あとで、ローリング・ごろんごろん、しようね」と、無理やり笑って、熱々の厚揚げをほうばっては咳き込んだ。空いている席に、もちろんあっちゃんは座っていなかった。ドッドッドッドッ。心臓の鼓動は右肩上がりに早くなっていき、火傷した口の中が、その鼓動に合わせてズキンズキンと痛むのだった。

「地蔵くん、いいよ」
あっちゃんと僕はホテルにいた。ホテル極楽浄土、ラブホテルにしてはいかした名前だと僕は思った。なんでこうなったのか、経緯はわからない。わからないけど、現にベッドの上には、シャワーを浴びたばかりで少し水が滴っているあっちゃんが横たわっていて、艶かしい足元をちらりと布団から覗かせていた。部屋の中には、鏡がいたるところに貼り付けられていて、ベッドの前に立ちすくんでいる僕が何百人も鏡の中に映し出されている。
「あっちゃん」
僕は、童貞の少年みたいに、喉を詰まらせながらなんとかその言葉をひねり出した。心臓の鼓動はやはり早い。ベッドのうえに横たわるあっちゃんの顔は、なんとなく10年前に僕らがよく顔を合わせていたときのような、まだ少女のような若々しさが見えた。そんな状況だからだろうか、僕らはまだ十分に若かったのだと、少しだけ安堵をする。
「でも、どうして?」と、僕はあっちゃんに問いかけた。「どうして、俺なんかと?」
「さあ、地蔵くんのこと、忘れられなかったのかな」と、あっちゃんはふふっと笑った。「地蔵くんは、自分のこといつも”小松石だから”って卑下していたけど、私にとってはそれが良かったんだよね。そう、あなたが最高なの。これまでも、これからも、いつも地蔵くんのことを心の中に想っているし、そばにいたいの」
そう言われて、僕の下半身部分が熱くなるような気がした。

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