慌ててイジェクトボタンを押すと、セットした筈のスライ&ザ・ファミリー・ストーンの「フレッシュ」は、セロニアス・モンクの「ソロ・モンク」に変わっていた。
彼女はCDを自分から取り替えたことがあっただろうか、とぼくは考えた。
気づけば、階上からは女の笑い声がひっきりなしに降り注いでいた。
笑い方の感じから、誰か男を連れ込んでいるらしかった。
そうだ。
あの手順には、必要なものが一つ足りていなかった。いや、足りてはいた。ただ、ぼくはちっともそれを理解していなかった。
ぼくはベッドに腰を下ろすと、サイドテーブルに置いたままの、おそらく彼女の飲みかけであろう(まだ冷えている)バドワイザーの缶を飲み干した。そしておもむろに握りつぶすと、手の甲に口をつけ、裏返し、開いた。思った通り、バドワイザーの缶は一切れの西瓜へと姿を変えていた。耳のすぐ近くで男の笑い声が聞こえた。ステファンの声に似ている? いや、ぼくのだ。ぼくが笑っているのだ。まるで自分の声じゃないみたいだった。誰か別の男が、ぼくの耳元でひっきりなしに笑っているような具合だった。ぼくは台所に行くと、冷蔵庫を開け、中にあるものを片っ端から握りしめ、手を開いた。父親と恋人のことを考えながら。それで全てが元に戻る筈だった。だけど、ぼくの手の中からは蝶が現れた。あのドイツ人が出したような、美しい青緑色の蝶ではなく、どす黒い赤色をした蝶が。ライ麦のブレッドも、牛乳も、ストロベリーのジャムも、賞味期限切れの近い卵も、ベーコンも、バターも、ブロッコリーも、アスパラガスも、冷凍のシュリンプも、ロックアイスも、ハーゲンダッツのバニラアイスも、バドワイザーも、凡そぼくの手で握りしめることのできるもの全てが蝶へと姿を変えた。何度やっても同じだった。冷蔵庫の中のものを全て片付けてしまうと、備蓄の食料を試し、家中のあらゆるものでも試したが無駄だった。無数に膨れ上がった蝶は、そのおぞましい色合いに反して、一つ羽ばたくたびに、美しい金の鱗粉を撒いた。その様は、幼い頃、父親と2人で見た、イチョウ並木をぼくに想起させた。
ぼくは最後の煙草を一本取り出すと、空箱をベッドのサイドテーブルに放り投げて、ベランダに出た。そして、ビックのライターで火を付け、二度吸うと、祈るように手を組んで、火のついた煙草を握りしめた。手のひらをジュウ、と煙草の先端が焦がす。肉の焼けた匂いがして、遅れてジクジクと強い痛みがやってきた。
手を開く。
中には、やはり、渇いた血のような色をした蝶が佇んでいた。
焦がした筈の手のひらはすっかり元通りになっていて、痛みは綺麗さっぱり消えていた。煙草はどこかへと消え、手のひらを焦がしたという、ぼくの記憶だけが残っていた。
「結局のところ」とぼくは言った。
「結局のところ、ぼくは喪ったもののことばかり考えている」
蝶はフワリとぼくの手を離れると、仄かな町の灯り目掛けて飛んでいった。あとには、ぼくと、一切れの西瓜と、無数の蝶だけが残された。