小説

『イントロスペクション』泉鈍(『魔術』芥川龍之介)

 ええっと、手の甲を上にして、自分の口元に引き寄せて……それから?
 そうだ、それからゆっくりと裏返す。そしてビールのことを考える。なるべく具体的に。手触り、色、ラベル。バドワイザーがいい。瓶ではなく、缶の。いつもの慣れ親しんだやつが。途中、赤い蝶のイメージがサブリミナルの映像のように何度も頭の中に浮かんでは消えた。
 手を開くと、まるで始めからそこにあったみたいに、すっぽりとバドワイザーの缶ビールが収まっていた。程よく冷えている。暫くぼうっと突っ立ったまま握っていると、アルミ缶についた水滴がポツリポツリとぼくの手を伝って、床に落ちた。床に撒き散らされた筈の西瓜の果汁は、跡形もなく消えていた。
 おかしな現象だ。
 本来なら慌てふためくか、変な笑い声の一つでもこぼすべきところなんだろうけど、ぼくはちっとも動じなかった。いや、動じることができなかった。あるのは、やっぱりな、という諦めにも似た感情だけだった。なんせ、はっきりとした自分の意志ではないにせよ、結果として、ぼくはとても恐ろしいことをしてしまったということを、まざまざと目の前に見せつけられたのだから。

 西瓜はどこへ行ってしまったんだろう?

 頭を振ってその考えを打ち払い、プルを引き上げる。カシュっと気の抜けたような音が空気を微細に震わせ、モンクのピアノの音と混じりあって消えた。ぼくはそれをきっかり3秒聴き届けてから、一息にビールを飲み干した。味はさっきの西瓜とたいして変わりなかった。ほろ苦く、冷たいだけ。でも、気を紛らわすには、西瓜よりも、ビールの方がよかった。
 台所の小窓に貼り付けた外気温計を見ると、赤い線は26度に達していた。ぼくはエアコンのリモコンを2度下げると、再びタオルケットに潜り込んで目を閉じた。やけにベッドが広く感じた。そして、一人で横たわることがひどく堪えた。
 そうだ。

——ぼくは魔術師に出会ったのだ。

 些細なことで恋人と喧嘩をしたぼくは、街灯の明かりを頼りに、海沿いのアスファルトの道路をひとり歩いていた。時折、荷物をたっぷりと蓄えたトラックがクラクションを吹き鳴らし、ぼくを消し去らんばかりに強烈に照らしあげては、過ぎ去っていった。
 ぼくは残り少ない煙草を吹かしながら、恋人にまつわるあらゆることを、どうにか自分に納得を利かせようと試みていた。
 帰って、謝って、なだめて、眠りに就く。
 やさしく寄り添って、稚児をあやすように。
 たったそれだけ。

 だけど、たったそれだけのことができなかった。

 今すぐ帰って、顔を見て話せばいいだけだ。そりゃ、多少ぶたれたりするかもしれないが、それで終わりの筈だ。そして同じベッドで眠りに就き、また日々をやり過ごす。そんなことをいつまで続けろっていうんだろう……。

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