小説

『イントロスペクション』泉鈍(『魔術』芥川龍之介)

 こんな具合で、ぼくの頭ん中はちっともうまいこといかなかった。家を飛び出してから、たらふく飲んだアルコールがまだ抜けきっていないことも災いした。夏の終わりの生温い海風がぼくの首筋を何度も、家に帰るようにと諭すように撫でたが、それだけだった。なにかもっと気の利いた言葉が必要だった。とびきりの、啓示じみた、なにか。そんなやつ。ジーンズの後ろポケットに突っ込んだ、フィッツジェラルドの短編集をひと撫ですると、どこか腰を落ち着けてじっくり読めるところを探した。一晩、こいつでも読みながら、外でゆっくりと過ごそう。街灯の明かりだけでは心細い。どこかぼんやりとでもいいから、あともう少しだけ明るいところで……。
 だけど、こんな海沿いの田舎町に、夜遅くまで明かりをつけている場所なんてどこにもなかった。唯一、町の外れの海を見渡せる丘に「デルフォニックス」というバーがあったが、そこはもう23時の早い閉店と同時に追い出されたばかりだった。
 ナラの木にでも寄りかかって、地べたに腰をおろそうかと考え始めたとき、ぼくはいつの間にか自分が隣町とぼくの住む町を繋ぐトンネルの側まで来てしまっていることに気が付いた。

「ああ……そうだ……なんだっけな」

 ぼくはさっきバーで出会った、ステファン・ランボウトと名乗るドイツ人から聞かされた、おかしな話を思い出していた。

 それは、海沿いのトンネルに魔術師が住み着いた、というものだった。


「まさか」
 カウンターの左端に腰掛けて、もう4杯のジンをオン・ザ・ロックで飲んでいた。そろそろ勘定を済ませて帰ろうか、といった頃合だった。
 客はぼくの他に、1組、女連れの男がいるだけで、マスターと何事か話し込んでいた。ふと隣に目を配ると、例のドイツ人がまるで初めからいましたよって具合でぼくの右隣に腰掛けていた。酔っているせいか、彼がいつ来たのか、ぼくはまったく気がつくことができなかった。
 目が合うと彼は人好きのする笑みをぼくに向けた。そして、ごく自然な流れでぼくらは話し始めた。互いに話し相手にあぶれていたということもあるし、ぼくがまだホントは家に帰りたくなかったということもあった。
 ステファンはとても流暢な日本語を話した。聴けばあちこち旅をしているらしく、何ヶ国もの言葉を操れるとのことだった。暫くこの町が気に入って滞在していたが、今日の夜にでも町を離れるという……。それならばと、ぼくらは実に様々な話をした。仕事のこと、趣味のこと、恋人のこと、結婚のこと、父親のこと……とにかく、何でもだ。彼には不思議な魅力があった。誰にも話さず、自分の中できつく蓋をしておいたものを引き出させる力のようなものがあった。だから、ぼくはつい自分の悩みの核心を少しさらけ出してしまった。きっと彼の美しいグリーンの瞳のせいだ、とぼくは感じたことを覚えている。暖色の照明に照らされた薄暗い室内にぼんやりと光る彼の目は、どろりと今にも溶けてしまいそうな妖しさを湛えていた。
「ホントさ」とステファンは喜色が抑えきれないといった調子で言った。「しかもそいつは魔術を教えてくれさえする。教えてくれたというより、いつの間にか押し付けられてしまっていたって感じだったけどね」

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