小説

『イントロスペクション』泉鈍(『魔術』芥川龍之介)

 そりゃ、ステファンの見せてくれたモノには驚かされたが、こんなところに魔術師がいて、都合よくぼくに魔術を授けてくれるとまでは信じられなかった。
 いや、魔術を押し付けてくれるか……まあ、そんなことはどうだっていい。

 ぼくは曖昧な記憶を頼りに、何もない虚空を掴むと、目を瞑り、ぼんやりと恋人のことを、そして父親のことを考えながら例の手順で手を開いた。

 だけど、魔術師なんか出て来やしなかった。

 どうやら、ぼくはまんまとかつがれたみたいだった。ステファンの悪戯っぽい笑みが目に浮かぶ。だけど、不思議と腹は立たなかった。むしろ感謝の念すらあった。恋人のあれこれを紛れさせてくれただけ、マシだ。今日はもうとっとと帰って、ぼくから謝って眠ってしまおう。
 気が抜けたせいか、身体がひどく重く感じた。
 今すぐにでも横になりたかった。

 不意に、ポケットに突っ込んでいた携帯電話が鳴った。恋人からだと思ったが、画面を見ると知らない番号だった。

 出ると、聞き覚えのない男の声が言った。

「今年の夏も帰ってこないのか?」

 ぼくはすぐに電話を切った。
 そんな電話が掛かってきたのは、生まれて初めてのことだった。


 急いで家に帰ると、中は不自然なくらいしんとしていた。目眩を起こしてしまいそうな静けさだった。夜遅くに何も告げずに出て行ったことを責めているのだろうと思った。いや、思おうとした。ぼくは明かりを付けるのも忘れ、恋人の姿を求めた。
 どんなに怒り狂っていたとしてもよかった。
 一目見て、安心したかった。

 だけど、彼女はどこにもいなかった。

 どこかへ出かけているのかもしれないと思い、玄関を点検したが、彼女の靴は全て綺麗に揃っていた。
 電話も繋がらない。
 ぼくはリビングへ行くと、古いCDコンポの再生ボタンを押した。音楽でも聴いて、この混乱から少しでも遠ざかりたかった。頭の中を整理しなくてはならない。キュイーン、とCDを読み込む音がして、出かけにワンリピートで掛けっぱなしにしていた「一緒にいたいなら」がすぐにスピーカーから流れ出す……筈だった。

 聴こえてきたのは、不安定なモンクのピアノの音だった。

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