小説

『裏島太郎』木暮耕太郎(『浦島太郎』)

 振り向くと亀梨はふらふらと砂浜を歩いている。例えば、これが全て酔っぱらいの作り話だったとしても青年には何のリスクもない。ただ時間になっても待ち合わせ場所に誰も来ないだけだ。青年は、得体のしれない高揚と不安に自分が怯えて居ることを認めたくはなかった。


 予定時刻より少し前に青年は砂浜についた。相変わらずの空腹と渇きに神経は苛立っていた。仮に嘘だったとして、亀梨を町で見かけたら傷害事件を起こしてしまいそうだ。
 そのとき、視界が遠くの海上から近づく光を捉えた。
 光が近づくにつれて船の輪郭がはっきりとしてくる。
「まじかよ・・・」
 青年は自分の強運に身震いした。迎えに来た船はこの町の風景には不釣り合いなほどの豪華クルーザーだった。

 デッキに立つ男はフォーマルなスーツに身を包み、青年をまっすぐと捉え、丁寧に礼をして船内へ来るよう手を向けた。
 青年は途端にデニムにスニーカー、ネルシャツという格好が場違いに感じ、恥ずかしさと居心地の悪さを感じた。

 迎えの男が口を開いた。
「亀梨さまからお洋服のプレゼントがございます。そちらに化粧ルームがありますのでお着替えください。」

 洋服が入った紙袋を受け取り、言われるままに奥の扉を開けるとたしかにそこは4畳ほどの化粧ルームになっていた。一流ホテルの化粧室のようである。島と本島との移動はせいぜい20分程度である。金持ちの金の使い方は理解できないと唖然とした。

 渡された紙袋を開けると濃紺のデニムと白いYシャツ、ベルト、黒いドレスシューズが入っていた。同じデニムでも今履いているものとはツヤ感が異なることはファッションに詳しくない青年でもわかった。

 全てを身につけると、鍛え上げた体が強調されつつ、エレガンスをまとった姿が鏡に映された。

(これが自分・・・?)
 夢も今だ実現できず、仕事も日雇いで数日先の生活も安定しない、同級生に胸をはって報告できる近況もない、あの自分とは思えない。もしかしたら、この瞬間から輝かしい未来へシフトしているのかもしれない。ドレスアップしたことで青年の顔つきは一秒ごとに自信を増していた。

 化粧室の扉を開けると迎えの男が「どうぞ」とシャンパンを渡してきた。
 青年は一瞬の迷いの末、グラスに手を伸ばした。クラブに着いたら全て吐き戻せばいい、それよりせっかく高まった自己像を崩したくなかった。デッキの手すりにつかまり一口含んだ。

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