唇が欲しいと思ったのです。真っ赤な、唇。ある古着屋の女の子を見て、僕はそう、強く思ったのでした。
僕は、通っている絵画教室の六月末の展示会に出す作品のモチーフが未だ決まっておらず、その日、それを見つけるために、ふらふらと様々な町に繰り出していました。開催まではもう二週間もありませんでしたが、僕には幼い頃からいつも、確証のない、変な自信がありました。地方の大学に通っていたものの突如美大に憧れてしまった僕は、大学三年、二十二歳の時に上京をして、埼玉の美大予備校に通うことにしたのでした。しかし、まあ現実はそうやさしくなく、浪人して三年目の春、指導が厳しすぎるあまりに絵を嫌いになっては元も子もない、と予備校をやめ、附属していた絵画教室の方に通うことにしたのです。そちらではコンビニのアルバイトをしながらも、比較的のびのびと絵を描くことができましたから。で、そんなわけで今回の展示会は、絵画教室の「ドリーム、ホープ、パッション展」でありますが、僕はできるだけ知らない町、道、場所で、ひたすら、心を動かす何かに出会おうとしていたのです。そして辿りついたのが、その、小さな古着屋でありました。
その古着屋は、毎日通う絵画教室から二駅隣、細く薄暗い路地を少し行ったところに建つ古いアパートの一室に展開していました。
〈二階、古着とか売ってます〉
店の前には、ベニヤ板を二枚蝶番で留めただけの、安っぽい看板が立てられていました。店名の記載はありませんでした。僕はなんだか怪しい店だな、と思いましたが、普段出会えない、一風変わったものでも置いてあるのではないかと少し期待を抱いてしまって、気づけば看板の矢印が指す方向、アパートの二階への階段を上がっていました。他の部屋の扉に「空室」を赤字で書かれた紙が貼られているのに対し、廊下の突き当りの部屋の扉だけが開いたまま固定されていたので、あの部屋が、看板の出ていた、古着とか売っている店なのだろうということはすぐにわかりました。入り口には、ドアの代わりにビニールカーテンが吊されています。中は暗いようで、様子が覗えないのが少し不安でしたが、僕は数回呼吸を整えてから、恐る恐るカーテンの切れ目に手を入れて、それから半ば勢いに任せてそのまま店内へ、えい、とからだを押し込みました。
一歩中に踏み込むと、途端、店内に漂う甘ったるい独特の香りが僕を襲いました。お香だか、アロマだか、そういう類いは詳しくないものの、嫌な気はしない、なんだか花のような、フルーツのような、そんな香りだと思いました。それにしても店内、暗い。ただ、ぼんやりと明かりの灯った四角いランプシェードが床の至る処に置いてあるだけでした。僕はしきりにそれらに蹴躓きながら、商品を見て回ることにしました。置いてあるお洋服は、全てレディース、アメリカ古着でした。レジの横の壁に掛かっているGUNNE SAXのワンピースがお店の雰囲気に、妙に合っているように感じました。レジの手前に置かれた小さな木のテーブルにはアンティークレースが掛けられていて、その上に置かれた浅い木箱の中には、パステルカラーの紙の小袋がたくさん入っていました。ベビーピンク、クリームイエロー、ライトラベンダー、ペールオーキッド……手にとってみると、なんとも可愛らしい字で『rain』、『happy』、『wonderland』などと書いてあります。なるほど、表の看板を「古着など」とした理由を、僕はそこでやっと理解したのでした。一つ百五十円と書いてあります。しかし、これが何なのかもよくわからないので、大してほしい欲も湧きません。が、この店の雰囲気、嫌に緊張感があり、何も買わずに外に出ることにやや抵抗があったため、僕は一番手前にあったウィスタリアにごく近い藤色をした『happy』と、澄み渡るようなホリゾンブルーの『sky-diving』の小袋を一つずつ選び、レジの上に置きました。百円玉を三枚手渡し、そして、そこで初めて君を見ました。君は今いる店内といい意味で対照的、雪のように白い肌をもっており、暗がりの店内でぽっと光る、まるでイコンのようでした。小柄で華奢なからだに、ふわふわとウェーブした栗色のロングの髪。長く繊細な睫を拵えたぱっちりとしたヘーゼル色をした二つの瞳と、その少し下に飾りのような小さな鼻。そして、小さくぽってりとした、真っ赤な唇。白い肌に浮く、真っ赤なルージュ。君を見た時、その唇を僕の目が捉えた、その瞬間、僕は、稲妻を落とされたのでした。まるで薄暗かったあの一室に、確かに閃光が走ったのです。つやつやとしていて、とても柔らかそうな唇。色、艶、質感、形状と、彼女のもつ唇に、欠点は一切見当たりませんでした。