小説

『唇』金谷沙織(『草枕』)

「ポイントカードをお作りしても、よろしいですか」
 彼女が言いました。彼女の口先でつむがれる甘美で丁寧な言葉遣いと可愛らしい唇の動きをもっと見ていたくて、すぐさま「お願いします」と言っていました。彼女が目の前にカードを取り出し、名前を書くように指示、僕はそれに太田浩之と記入しました。
「ありがとうございました」
 レシートを渡される際、そう言葉を発したその唇の、細やかで女の子らしく、しかしどこか官能的な動きに、僕は頭に血が急上昇するのを感じていました。

 次の日、僕はもう、昨日までの僕とは明らかに違いました。モチーフは彼女の唇、それ以外はありえないという、きちんとした自信があったのです。絵画教室についてすぐ、下書きをする時間すら惜しく、僕はイーゼルに五十号のキャンバスを立てかけると、一気に描き始めました。というか、描いている感覚はないのです。彼女の唇を思い出して、頭がいっぱいになって、すると勝手に手が動いている。彼女の唇、一度見ただけではあるけども、一ミリ足りとも間違いなく、鮮明に脳に刻まれているのでした。幼さの残る顔つき……いや、実際若いのでしょう。しかしどこか凛としたエロティシズムも感じさせる彼女の唇。――結局その日の絵画教室の時間はあっという間に過ぎてしまいました。たった一日しか愛を注いでいない作品ではあったものの、いつも時間を掛けて仕上げる作品以上の出来栄えだと思いました。先生が見回りで、僕の描いているキャンバスの後ろに立っているのがわかります。しかし、なかなか歩き出す様子がありません。暫くして、先生は溜め息のように小さく「……ほう」と呟くと、それからやっと歩き出しました。次の人、その次の人と、同じように後ろから絵を見て回るけども、すぐに通過していってしまいます。やがて教室の終了の時刻を告げると、先生は皆に向かい、ゆっくりとこう言いました。
「私はいつも、ドリーム、ホープ、パッションを大切にしてほしいと君たちに言うが、しかし、今日見た中で、これほどまでに己の希望を強く具現できる生徒がいるとは思わなかった。あとは作り手がその事象と一体となれれば、私はもう言うことはない」
僕は心のなかで、しめしめと思いました。先生が話している間、僕は先生と、ずぅっと目が合っていたのですから。しかし、あの唇こそ、世界で一番の美しい唇なのですから、先生がどう言おうと、これ以上良く描きようがないのです。「完璧です」と言われなかったことが僕は少しもやっとしました。このことがあって、僕はますますあの店に行きたくてたまらなくなりました。

 いつもは絵画教室へ行く途中にその古着屋に立ち寄るのですが、今日は我慢できず、帰りにも寄ってしまいました。いつものようにあの小袋を三つ――この日は、『rain』、『holiday』、『happy』でした――持ち、レジへ持って行きました。彼女の唇を見つめます。もうそれで僕は充分に満足していたのですが、そこから予想外のことが起きました。
「お紅茶、お好きなんですか」
 なんと、彼女から事務的な内容でなく、話しかけられたのです。びっくりしてすぐに言葉が出ませんでした。
「お兄さん、いつも二つか三つ、買って行かれますけど、必ず一つは『happy』を買って行かれますよね」
「あ、はい」
「わたし、中でも『happy』は一番、お気に入りなので嬉しくて……。いつも、ありがとうございます」
「いえ」
「実はそのお紅茶たち、すべて私がブレンドしているものなんです」

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