小説

『ピンクの雫』柴垣いろ葉(『アリとキリギリス』『さくらさくら』)

 雪解けの水を一身に吸い込んだ土の中から小さな緑色の生命体が這い上がってきました。あたりの様子をうかがっていたその生命体は、しばらくすると、全身を矢のようにして走り出します。
 この緑色の生命体の正体はキリギリス。
 ほとんどの生き物がそうであるように、この生まれたばかりのキリギリスもまた、自分が生きているということにはまだ自覚がないようです。
 はっきりとしない意識の中で感じられるのは、少し冷たさの残る風、東から登ってきた日差しのぬくもり、自分の身体にあたる新芽の柔らかい感触。
 あおあおと生い茂る草の中を駆け回っていたそのキリギリスが、自らの命に気が付いた頃には、あたりはもうすっかり春になっていました。
 一面緑に色付いたその草原は、人里から少し離れた森の中にあります。草原は、なだらかな窪みになっていて、山から森を通ってやってきた水たちが列をつくり、美しい川を形成していました。草原の真ん中には、大きな桜の木が植わっていましたから、風と共に走っているキリギリスのうえには、桜の花びらたちがひらひらと踊るように舞っています。
 どれほど走ったことでしょう。ある時、空から降ってきたこの花びらのひとつにキリギリスがぶつかりました。
「わあ!なんだいこれは」
 生まれてきたばかりのキリギリスには、桜の花びらがなんだかわかりません。その花びらを振り払うとキリギリスはその足を止め、呼吸を落ち着かせます。
 ぶるぶるっと頭を振りあたりをゆっくり見渡すと、遠くのほうになにやら黒くて細長く、ぐにゃぐにゃとうごめく生き物が目に入りました。自分以外の生物を見るのは、はじめてでしたから、最初はとても驚いていましたが、もうすっかり個体としての身体を整えていましたので、他の生物との対面にはなんの躊躇もありませんでした。


 その黒い生物に近づいていってみると、なんと驚くことにそれは一匹ではなく数十匹とが 連なっていたのでした。複数のその生物たちは、みな何やら細かくちぎったものを運んでい ます。その生物の進む先には、生き物が一匹やっと入れるほどの小さな穴が開いていました。キリギリスは、彼らが一体何をしているかを確かめるために心の中から浮かんできた言葉 をそのまま口に出していいました。
「何をしているの?」
 その一言が放たれると、それまで地面に目を向け忙しそうにしていたそれらが一斉にこちらを向きました。黒い体に黒い瞳。土の上に無数にちらばった黒い点にみつめられ、どこを見ていいのかがわかりません。彼らは混乱しているキリギリスを見つめていましたが、しばらくすると、お互いに顔を見合わせすこし困ったような顔をしてからまた下を向き、さっきまでの作業にもどりはじめました。自分の言葉が全くもって無視されたことに驚いたキリギリスは、今度はもっと大きな声でいいました。
「君たちは、何をしているの?!」

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