「いやですね、ユミさん。私に心はないですよ。でも、聞いてくれますか?」
また少しうつむきながら、彼女はゆっくりと話し始めた。
「私、人間に恋をしたことがあるんです。ユミさんがこちらに来る前のことです。」
恋。『エー』を恋人や家族として接する人は、もちろん存在する。でもそれは、あくまで人間からみた話だ。『エー』である彼女の恋とは、どんなものだったのだろう。
「好きになった人は、私のメンテナンスに来る方でした。笑顔が素敵で、データのバックアップ中も私に気を遣って話しかけてくれました。彼の来る日が楽しみでした。」
彼女が接する人間は限られている。診療所の職員、患者、そして診療所を出入りする業者。特に彼女と多く接する機会のある人間は、『エー』の管理業者だ。
「彼が私に触れるたび、ドキドキしたのを覚えています。好きな人の体温が伝わってくる。それだけなのですが、嬉しかったんです。彼も、きっと私の気持ちの変化に気づいていたのでしょう。時々、可愛いねとか囁いてくれました。私はそれだけで、充分幸せでした。」
彼のことを話すササキさんは、嬉しそうで少し辛そうだった。
「そんな小さな出来事に幸せを感じていたのですが、恋とは少しずつ欲が出てくるものなのですね。私は自分のそういった変化に驚きました。彼と少しでも長く一緒に居たい、そう思った私はある日、自らプログラムを操作して正常に起動しないようにしたのです。」
「まさか、それって…。」
「そうです。それは、私たちにとって自殺行為です。もちろん、私の中には診療所のデータから患者のデータまですべて管理されていますので、診療所としても大問題です。」
『エー』の行動の選択肢は、既存のプログラムを超えて広がりをみせていた。彼女の起こした行動も、自身が恋をする上で多くの選択肢から最良と判断したものだったのだろう。例え人間から見ると、間違いであったとしても。
「すぐに安全装置が作動して、異常を感知した彼が飛んできてくれました。その瞬間は嬉しい、と感じました。でも、彼が心配したのは私自身ではなく、私の持っているデータでした。…当たり前ですよね。必死で異常がないかを調べる彼の隣にずっと居て、私は大切な人に酷いことをしてしまったと後悔しました。」
上手な相槌も打てず、私は彼女の話を聞くことに徹した。彼女は一定のテンポで、ゆっくり話を進めてくれた。
「データやプログラムも特に問題はありませんでした。徹夜をして点検してくれた彼は、よかったと言いながら私の頭をなでました。今でも困ったような、悲しそうな、でもホッとしたような顔を覚えています。」
チラリと彼女を見ると、また寂しそうに微笑んでいた。