「ええ。…ちなみに、私は皆さんからササキさんって呼んでいただいてますが、ササキミユキっていう登録名なんですよ。」
ああ、と思って彼女の目を見た。彼女はにこりと微笑んだが、その表情からは今の感情は読み取れなかった。
「そう、先生の娘さんの名前。ササキは、奥様の旧姓です。ユミさん、私はね、私であって、私ではないんです。ササキミユキっていう名前も、この診療所の事務ってことも、人間ではなく、『エー』だということも。私であって、私ではないんです。でも、それでいいんですよ。」
やはり、彼女は院長の依存相手だ。家族を失った悲しみを埋めるための。依存相手となることで、彼女は今の暮らしができている。だから、彼女もどこかで院長に依存しているのだ。
私は、今まで誰かに依存できていただろうか。何人かの顔が浮かんでは、消えた。依存するって何だろう。どういう関係を構築していけばよいのだろう。
「ユミさんにもいるじゃないですか、スドウさんという依存相手が。」
彼の名前が出てきて、どきりとした。私と彼の関係は、何て呼べばよいのだろう。
「えっと…。私、彼が依存相手なのかよく分かりません。上手くできないんです、誰かに依存するってことが。」
「そうなんですか?」
「はい。…実はね、ササキさん。昨日彼にプロポーズされたんです。とっても嬉しかったですし、彼との将来を考えてみたいと思ったんです。…でも、その場ですぐに返事ができませんでした。少し待ってほしい、なんて言ってしまいました。」
「なぜ?彼のことが嫌いなんですか?」
「いいえ。もちろん、好きです。…でも、違うんです。好きか嫌いかの話ではなくって。えっと…。」
言葉がもつれて出てこない。私はきっと、何かを伝えたいのだ。隣にいるササキさんに、何かを感じて欲しいのだ。
私が言葉に詰まっていると、彼女はスッと立ち上がり、コーヒーを入れ直してくれた。
「大丈夫ですよ。今日はいつ鍵を閉めてもいいので。ユミさんの中にあるもの、ゆっくり吐き出してみて下さい。」
私は淹れたての温かいコーヒーを飲んだ。ほんの少しだけ甘さを感じた。少しずつコーヒーを飲むうちに、彼女に私の中にあるものを吐き出したくなった。
「…私、この歳まで独身なんですけど。結婚とか、出産とか、未来将来の話を出されると、急に相手に対して冷めてしまうんです。それで、今まで結婚に踏み切れなくて。」
「それはどうしてですか?人は愛する方と、未来の約束を交わすものなのでは。」
「そういうものだとは思うのですが…。一生二人で幸せに過ごしましょう、みたいな物語的な話では終わらないじゃないですか。籍を入れて、いつまでに挙式して、子どもが産まれたら育てて、いつぐらいには家を建てて、子どもが大きくなったらどこの学校に通わせて…。具体的に私の先々が決められてしまうんです。だから、結婚とか、その先を考えると毎回戸惑ってしまって。なぜ、人は将来を見据えて生きているんでしょうか。」