「おいおいおまえ、わかんないって… 何か夢とかないのかよ。なろうと思えば何にだってなれるんだぜ」
普段何をしているのかよく分からない父親がそんなことを言う。父親が子供のころ描いた夢の結果が今ここにあるのだろうか、小学五年の洋介はそんなふうに思った。
「それじゃあお父さんは夢が叶ったの?」
「あっ…… ああ、まだまだこれから叶うのさ」
父親は少し気まずそうに言った。洋介は父親の夢が、果たしてどんな夢であるのか聞こうと思ったが、どうも勇気が出ずにやめた。かわりに自分が将来何になりたいのか考えてみた。二人のやけどしそうに熱くなった足の裏は、母親と妹が談笑するシートの上へと逃れた。
「お帰りなさい。冷たい麦茶でも飲む?」と母親が、海から戻った二人に言った。
「冷たい麦茶じゃなくて冷たい麦酒をもらおうか」と、父親がすぐに応えた。
母親はクーラーボックスから冷えた缶ビールをとって父親に渡した。洋介は水筒に入った麦茶をコップに注いで一気に飲み干し「お父さん」と、父親に顔を向けた。「おっ、なんだ?」と父親は、缶ビール片手に彼の顔を見た。
「さっきの話なんだけど、僕歌手になりたい」
「おぅ、歌手か。いいんじゃないか、そうか歌手になりたいのか。俺の息子が歌手か、いいねえ。きっとなれるから頑張れ洋介、お父さん応援するよ」
将来自分がいったい何になりたいのか考えてみても一向に浮かばない、洋介の脳裏でターンテーブルが回り、父親が日ごろよくかけている古いレコードに針が落ちた。ふと彼は、将来歌手になるなんていいんじゃないかと思った。それでそれを父親に言ってみた。それを聞いた父親は陽気にうなずき応援するとまで言った。
「お兄ちゃんが歌手になるのわたしも応援する」
「そうか若菜もお兄ちゃんのこと応援するか。それじゃあ家族みんなで応援するとしよう、なあ智子」
母親は何も言わずただにこにこと笑って幸せそうにいた。
それから洋介の歌手の件は、父親を中心に家族の談話にたびたび持ちあがったが、本人の積極性に欠くのを理由として、やがて家族の皆忘れ、誰もそのことを口にしなくなった。洋介本人、歌手になりたいと言ったなんて、すっかり忘れた。
洋介は止めた車を離れ、堤防をおり、スニーカーで砂浜を歩いた。黙々として歩いた。穏やかな優しい春の海がそこにあった。家族の幸せの風景がかつてそこにあった。
彼はスニーカーをぬぎ靴下をぬいだ。ぬいだ靴下をまるめスニーカーの口にいれた。それからジーンズの裾をロールアップさせた。靴下がはいったスニーカーを砂浜にのこし、海のみぎわに、踝のあたりまで足を浸からせた。ロールアップさせたジーンズが海に浸かるぎりぎりの深さまで足を運んだ。波が立ち、洋介はジーンズを濡らした。