ガラス戸から日が差し、立春を越えた冷たい太陽光線をまぶたに感じ、信子は目覚めた。
信子は還暦を控えた自分の体が、まだ健康体であることにほんの一瞬、嫌気が差した。今日も一日が始まるのか……。
信子は布団から起き上がり、身支度を整えると、古めかしいすりガラスの戸を開け、春間近の霞んだ空気を少しだけ室内に入れる。そして茶漬けだけの朝食を済ませ、粗茶を一服し、掃除を始めた。
小さな台所と押し入れと六畳一間に小さなテレビと冷蔵庫。最低限の家電の他にあるのは小さな仏壇だった。ここにあるものが信子の全てだった。
信子は仏壇に向かう。高坏、高炉、燭台、鈴、鈴棒、そしてその奥に鎮座する骨壺。信子はそれらを丁寧に丁寧に拭いた。骨壺を動かすと、ごとり、と、音を立て蓋がずれた。
だが毎日のように丁寧に磨き上げられているそれらに汚れなどないに等しかった。信子はほうきを取り出し、畳の目に沿って掃いた。掃除機はない。信子は部屋の隅に小さなほこりがあるのを見つけた。信子はほうきの毛先をその角にいれ、かきだすように細かく動かした。しゃっしゃっしゃっしゃ……。
その作業に没頭したため、呼び鈴に気づかなかった。いや、正確に言えば気づいたのだが、ここに引越してきてから、訪ねてきた人はいないため、我が家の呼び鈴だと気づかなかったのだ。
「こんにちは。鈴木信子さんの、お宅ですか?」
薄いドアの向こうで男性の声がした。嫌な予感がする。というか、嫌な予感がする感じを思い出す。同時に記者独特のねちっこい視線を思い出してドアノブにかけた手をいったん引っ込めた。
「鈴木さん……いらっしゃいますか?」
もう一度問いかけられたとき、信子の緊張が別の方向に動いた。その声に聞き覚えがあった。慌ててドアを開いた。
「ああ、やっぱり鈴木さんだ……」
その男……桜井は笑うでもなく、安堵するでもなく、ただ受け止めるだけの視線で信子を見つめた。信子は驚きのあまり、思考が停止した。
「あの、いいですか?ここじゃあ寒いんで……」
信子はあわてて「どうぞ」と桜井を家の中に促した。
「お茶、いただけますか?」
桜井に乞われ、信子はキッチンに向かった。湯飲み茶碗は一つしかない。紙コップも置いていない。信子は今朝使った湯飲み茶碗で桜井に茶を煎れた。
「お焼香、いいですか」
信子は半身で振り返る。