再びオンボロセダンのイグニッションキーは回った。クランキングしポンコツエンジンはすぐにかかった。洋介は港から車を発進させた。キング・オブ・ブギの異名を持つジョン・リー・フッカーの歌うクロウリン・キング・スネークがカーステレオから流れ、車中をダークでムーディーな世界に彩った。彼は運転席の窓を少しあけ、タバコに火をつけタバコの先を赤く光らせ、あけた窓の隙間から紫煙を外に燻らせた。
洋介が海沿いに車を走らせていると、しばらくして車は臨海工業地帯に入った。無機質な工業プラントが人工的の光のなか妖しげな有機体となって夜も眠らず活動する。煙突が青く赤くと炎を吐く、白い煙が光に照らされながら空を登ってゆく。くねったパイプが不気味に縦横無尽と走る。それらがどこか異次元の世界を髣髴させる。その姿を愛好する者達がいると言う。その姿を収めた写真集がなかなかの人気だと言う。ケッ! 洋介は人工的の代表たるそれらを横目に車を走らせた。そこにある海でさえも人工の物であるよう、それらは彼に思わせた。洋介は、ありがたき自然がとても恋しくなった。
20ℓガソリン携行缶を横に、20才の洋介が運転する、20世紀の国産小型乗用車は、海に沿った道を、さらにさらにと前へ進んだ。途中彼は、航路を心配する灯台の光を見た。何艘かの小さな漁船が停泊している漁港を見た。沖合いに浮かぶ大型船の明かりを見た。明るい満月の光に煌めくさざ波を見た。次第に辺りは寂れていき、海がその偉大を波に歌う。柔らかく、荒々しく、歌う。海が歌う。20才の若き青年に向かい歌う。自然に帰れと歌う。本当の自分に帰れと歌う。失ったものを取り戻せと歌う。
やがて空が白み始めた。朝がくる。彼はカーステレオの電源をOFFとした。それまでブルーに歌っていた、マイルス・デイヴィスのトランペットの音がやんだ。彼は運転席の窓を全開にして、春の朝、まだひんやり冷たい潮風を、その頬に受けた。
「生きている」と言った実感が、しみじみ彼の心に生じた。それは彼にとって久しく忘れていた感覚だった。そんな自分の気持ちに、彼は懐かしみを覚え喜んだ。
しばらく窓を全開のままに、彼は車を走らせた。バックミラーに後続車の影が映らぬ海岸線を、彼はのんびりとハンドル握った。とんびがピーヒョロロと輪を描き鳴いた。ザァーと音を立て潮が引いた。チュンチュン小鳥がさえずった。ヒューと一瞬風が強く吹いた。白み始めた空がすっかり明るくなった。どこか心の琴線に触れる風景が洋介の目に入った。見覚えのある砂浜を認め、彼はゆっくりスピードを落とし車を止めた。
「洋介将来おまえは何になりたいんだ?」
小学五年の洋介に父親が問う。その夏彼らは家族で海水浴に出かけた。海から上がった二人は、強い陽射しに焼ける砂の上を裸足で、ビーチに広げられたシートへと歩く。シートのかたわら砂にさし立てられたパラソルの陰で、母親と妹が冷たい麦茶を飲みながら、なごやかに談笑している。洋介は父親の問いに短く答えた。
「わかんない」