小説

『GASOLINE BOOGIE』広瀬厚氏【「20」にまつわる物語】

 洋介は濡れたジーンズを気にとめることなく、そのままにそこに立ち、遠く水平線の彼方を見やった。彼は海の大きさを思った。自分の小ささを思った。小さな自分の命を思った。他の命を思った。命に大小はないと思った。ひんやり海の水の冷たさが足もとから全身に行きわたり、殺伐たる世相に熱して冷静を失った、洋介の心を完全に冷ました。
 彼は突然に家族の前から姿を消した父親を思った。意識の前面に持ち出してはいなかったにせよ、結局腹の片隅に、今の自分がうまくいっていないのは蒸発した父親のせいだ、父親のせいで自分は開かれた明るい未来を失った、と言った恨みをずっと抱えていた。しかし今、もしや今だけかもしれないが、それでも今は本心から、今どこにいるのか分からない父親のことを、許せる気持ちが素直に生まれた。
 よっぽどの理由があって父親は蒸発したに違いない。断腸の思いで家族を捨て家を出ていったに違いない。そう思うと彼は、それまで恨んでいた父親がかえって哀れになった。今元気にやっているだろうかと心配になった。もし出来ることならば成人した今、父親と会って色んなこと、例えば音楽の話なんかをしてみたいと思った。
 彼はここずっと会っていない母親と妹の顔をとても見たくなった。今すぐにでも、今も母親と妹が二人暮らすだろう、あの小さくとも思い出がたくさん詰まった、家に飛んで帰りたくなった。帰って、母親と妹の影をそばに、父親が残していったレコードに針を落とし、聴くともなく聴きながら、そのうちうとうとと…… まどろんでしまいたい。
 彼は一緒に暮らしていた女のことを思った。ふり返り、心が痛んだ。とても痛んだ。しかし痛んでも痛んでも、勝手に自分の心を痛ますのみで、今さら彼女にどうしてやることも出来やしない。自分ひとり心痛めることが、かえって卑怯とも思えた。どれだけ卑怯であろうとも心痛んだ。心痛ませながら、とにかく彼女の幸せを願った。きっと彼女が幸せになってくれるだろう未来を切に願った。すると少しだけれど、彼の痛む心も救われた。
 洋介は海から上がって靴下のはいったスニーカーを手に砂浜を歩き堤防を上がった。裸足で堤防に腰かけ、しばし海をながめた、空を見上げた、目を閉じ自分の胸のなかを見つめた。
 足のうらを軽く手ではらった。スニーカーのなかくしゃくしゃとなった靴下をだした。裸足のままスニーカーをはいた。
 洋介は、車の助手席ドアを開け、助手席足もとにある赤い20ℓガソリン携行缶を外に出し、キャップを回し給油口を開け、ポリエチレン製のホースを取りつけた。車のフューエルリッドを開け給油口のキャップを回し外した。ガソリン携行缶のエア調整ネジをゆるめ、車にガソリンを給油した。
 車に乗りこみエンジンキーを回すと、エンプティーに近かったガソリンメーターが徐々に上がっていった。洋介は20世紀のポンコツセダンをUターンさせて海岸線を戻った。

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