小説

『台風の向こうがわ』藤野【「20」にまつわる物語】

「絶対、とめると思った」
 ゆっこはいつも僕たちがバカなことをしようとすると「やめなよ」と心配そうな顔をする。今回も絶対そうだと思っていた。
「うーん」とゆっこは返事なのか返事じゃないのかよく分からない感じで小首をかしげながらつぶやいた後、「だって給水塔だもん」と微笑んだ。彼女にとってもやっぱり給水塔が特別だっていうのはすごく嬉しくて、心の中がむずむずした。 
 それぞれの階段の前でわかれるとき、ゆっこはすごく自然なふりをして
「そうそう、お母さんがコウ君に会いたがってるの。いつでもいいから今度夕ご飯食べに来なさいって。今日でも大丈夫だよ?」
「ありがとう。でも、うちもお母さんがご飯作ってるよ」
「そうだね」
 そう言ってうなづくと、ゆっこは小さく手をふって階段を登っていった。ゆっくりと僕も歩き出しながら、なんだか体の奥のよくわからない場所が苦しいような気がした。きっと、今誰かに声をかけられたら僕は泣いてしまう。
 家の玄関の前で僕はほんの少しだけためらってからドアを押した。鍵がかかっていた。自分の鍵を取り出して何かを祈るような気持ちでそっとドアをひらく。お母さんの靴があった。リビングは白っぽい明かりに照らされてしんと静まりかえっていた。僕が出て行く時にはわずかに開いていたお母さんの部屋の扉はきっちりと閉まっていた。
 外は風が強まってさらにどんよりと暗くなっていた。テレビをつけた。台風情報をどこの番組でもやっていて、明かりの灯ったマンションを背景にしたアナウンサーが「今日は、皆さん早く帰路についているようです」と言っていた。どの家の窓からもあったかそうなオレンジ色の明かりがあふれていた。
 白い蛍光灯の明かりが嫌で目を閉じてソファーに寝っ転がっていたらいつの間にか本当に寝てしまった。目が覚めたら外は真っ暗でくぐもった風の音がごうごうと窓の向こうから聞こえてきた。「お母さん」と小声でよんでみたけど、返事はなくてリビングは冷めた白いあかりのままだった。眠たい頭の向こうで、2ヶ月前にお父さんが「なぁ、コウ」って、団地の前で僕が車から降りるときに話しかけてきた時のことがよみがえった。そう呼びかけてきたお父さんの声はすごく暖かくて優しくて、だからこそ僕はそれ以上お父さんと話をしていちゃいけないと思った。
「なぁ、コウ。お父さんと一緒に」
 再生されかけた頭の中の映像をあわててシャットダウンする。どこだかよくわからない体の奥がまたぎゅっと苦しくなる。体の中に勝手に住みついた何かが僕を押しつぶすようにだんだんとふくらんでいるみたいだ。
 約束の時間が近かった。悩んだけど、今度はリビングの明かりを点けておく。そっと廊下を通るとき、本当にお母さんが部屋の中にいるのか確認してみたくなったけどやめておいた。

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