小説

『魔鏡譚』蟻目柊司(『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド)

 見間違えようもありません。ヴァシリーサでした。僕は飛び上がるように席を立つと、背後で中国人の店主が怒鳴るのも構わず、走って彼女を追いました。
 しかし、すぐそこにいたはずなのに、彼女の姿が見当たりません。僕は彼女の名を叫びながら、酔ってふらつく足どりで夜の街を走り回りました。そうして、蘇州河にかかる橋の上でどうにか彼女を見つけることができたのです。
「ヴァシリーサ、君なんだろう!」
 欄干に手をかけた彼女の長い金髪が、川からの生温い風を孕んでなびきました。露わになった白い横顔はやはり紛れもなく彼女のものでしたが、何かが明らかに妙でした。
 その顔は見覚えのあるものでした。いえ、むしろあまりにも見覚えがあり過ぎたのです。僕は気付きました。ヴァシリーサを最後に見た日からもう四十年近くが経とうというのに、彼女は僕の記憶の中のままの少女の姿でした。
「どういうことだ」
 僕がそう呟くと、頭の中で声が聞こえました。
――知っているはずよ。
 確かに、僕は知っていました。知りすぎているくらいに。
「君も、あれから歳をとってないのか?」
――私はあなたよりずっと以前から、変わらずに生き続けている。
「以前から?」
――そう。もう五百年を過ぎるわ。
 僕は絶句しました。
――あなたには謝らなければならない。こんな宿命を負わせてしまった。あなたは、私を救おうとしてくれたのに。
「終わらせる方法はないのか? 僕らは、もう死ねないのか?」
――方法はひとつだけあるわ。時計を壊しなさい。そうすれば、あなたは全ての傷を取り戻し、息絶えることができる。
 僕は懐中時計を取り出して見つめました。
――でも忘れないで。全ての傷がいち時にあなたのもとへ還るとき、それは、偽りの御身に刻まれてきた全ての艱苦が、一気呵成に降りかかるときでもある。
「なんだって?」
――到底人間ごときに耐え切れるものではないわ。死が訪れる前に、あなたは本当の地獄を見ることになる。
 ヴァシリーサは夜空に浮かぶ満月を招き寄せるように、細い手をかざしました。
――私の似姿は、この翡翠の指輪に込めてある。この程度の月明かりでも、その気になれば川面に像を結ぶことだってできるわ。
「止してくれ! 見たくない」
――賢明ね。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10