小説

『魔鏡譚』蟻目柊司(『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド)

   老人は全てを信じる。
   中年は全てを疑う。
   青年は全てを知っている。   (オスカー・ワイルド)

 

 気がつくと独りで飲んでいた。
 薄汚れたバーの一番奥の席。私はそこにいた。
 一体いつから座っているのか、まったく思い出すことができない。
 店内は薄暗く、極めて静かだ。私はきっと地下にでもいるのだろう。灰色の壁から滲み出してくる湿った冷気が、私をまるで墓の中にでもいるような気分にさせた。
 扉の開く音がして、暗がりから一人の青年が姿を現す。
 青年は端正な顔立ちをしていた。しかし、薄い唇の端をすこし歪めたような表情に、どこか凶々しさを感じずにはいられなかった。
 バーテンダーはその青年に声をかけるでもなく、ただ黙ってグラスにウォッカを注いだ。
 離れた席で青年はしばらくそのグラスを傾けていたが、ふと席を立つと、私の方へ歩み寄ってきた。
「ご無沙汰しております」
 おもむろに話しかけられて驚きながらも、私は必死に記憶を掘り起こす。
 しかし、青年の顔にはまるで見憶えがない。
 どこかで会ったかね、と私は尋ねた。
「あれ、ひどいなあ。部下の顔をお忘れですか」
「悪いが記憶にない。なんだか、どうにもぼんやりしてしまって」
「老け込むような歳でもないでしょう。いや、歳は歳ですかね、お互いに」
 妙な言い草だった。
「君はまだ学生か何かのように見えるがね」
「まさか、もう九十歳も半ばを過ぎますよ」
 私は困惑した。この青年は私をからかっているのだろうか。
「まあいいや、人違いならそれで。失礼しますね」
 カウンターに紙幣を置き、店から立ち去ろうとする彼の後ろ姿に、何かしら見覚えのあるものを私は感じた。
「なあ、君」
 思わず私は彼を呼び止めていた。
「九十歳というのは、どういうことかね」
「正確には九十六ですよ。僕はね、老いることのできない身なんです」
 何を馬鹿な、と私は声を荒げた。
「馬鹿な話ですが本当なんです。無理に信じろとは言いませんがね」
「すまない、詳しく聞かせてくれないか」

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