小説

『魔鏡譚』蟻目柊司(『ドリアン・グレイの肖像』オスカー・ワイルド)

「生きてる」
 慌てて自分の体をまさぐってみるも、傷ひとつ見つかりませんでした。
「嘘だ。どうして」
 驚愕に身を震わせるのも束の間、不意に後頭部を固いもので殴られ、僕はまた気を失いました。

 がたんごとん、がたんごとんと、車輪が線路の枕木を打つ音が、次第にはっきりしていく意識の中で聞こえてきました。
 どうやら僕は鉄道に揺られているようです。板張りの壁の隙間から月明かりが微かに射し込むばかりの暗闇でしたが、座席も何もない車内に沢山の人間が詰め込まれている気配を感じます。貨物車両でどこかに運ばれているようでした。
 僕はポケットから懐中時計を取り出し、朧げな月明かりにかざしました。果たして浮かび上がったのは、皮膚が焼け爛れ、所々骨が露出し、ぽっかりと虚ろな眼孔から血を流す、正視に耐えないまでにおぞましい僕自身の姿でした。

 辿り着いた場所は、シベリアの強制収容所でした。
 極寒の地での昼夜を問わない重労働、ろくに与えられることのない食料、ソ連兵の気分次第で課される懲罰。劣悪な環境のもとで、周りの日本人捕虜たちは次々に命を落としていきました。けれども僕だけは、皆のように痩せ衰えることもなく、凍傷で手足を失うこともなく、伝染病に倒れることもなく、危険な作業が延々と続く毎日の中でも傷ひとつ負わずに生き永らえていました。
 もうはっきりと分かっていました。
 僕は、不死身でした。
 生身の僕の代わりに、時計の映し出す肖像がすべての責め苦を引き受ける。どうもそういったかたちになっているようです。急激に痩せていく満身創痍の肖像を見ながら、僕は確信しました。
 ヴァシリーサの神通力か、魔術か、とにかく人知の及ばない奇怪な力が、この時計には込められているようです。
 耐え難い苦境の中で、僕はその力を利用しようと考えました。
 ある日、厳しい寒風の吹き荒ぶ雪原で、いつものように線路の敷設作業に追われていた僕らのもとに、監視役のソ連兵が近づいてきました。ロシア語で何かわめき散らしたかと思うと、ひとりの日本人捕虜を殴りつけました。それでも皆一様にうつむき、歯を食いしばって作業を続けます。僕は手にしていたつるはしを掲げてソ連兵に駆け寄りました。
「この鬼畜めが! くたばれ!」
 大声で叫びながら振り下ろしたつるはしはソ連兵の頭頂部に深く沈み、血を吹き出しながら彼は崩おれました。騒ぎを聞きつけた他のソ連兵たちが集まってきます。彼らの小銃が僕に狙いを定める中で、僕はつるはしを天に突き上げ、高らかに哄笑しました。

 予想通りでした。僕は射殺されたようです。

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