「幸福っていうのはここにいることを言うんだ。ここにいてもいいんだって感じられることを言うんだ。もっというと、そこにいる事をわすれてしまうような毎日のことを。
だから、思い返してもそういう場所がない人は不幸なのかもしれない。でも考えてみたら簡単なことで、不幸も幸福も居場所が作る。だから幸福ならそれを守らなくちゃいけないし、不幸ならさっさと探しに行けばいい。そうして僕はここにきた、ただ揺れる水仙のきらめきがいつまでも続くこの湖のほとりに。
僕たちは死ぬことや生きることについて話し合わなくちゃいけない。でも話し合ったらそれは大事にしまっておくんだ。だって話し合っていたら抱き合えないからね。
一人の時はどうするのかって? どうしたって孤独な人はいる。僕もそうだ。父もすぐに亡くなった。幸いにかわいい妹とかけがえのない友人はいたけどね。それでも仲の良くない兄弟や顔も見たくないクラスメイトだってたくさんいるろう? 無理に誰かといなくてもいいんだ。
でも、そうだね。一人では語りあえない。だから語りあえる友人というのは本当に大きな財産だ。どうやって友人をつくるかって、簡単な事さ。好きなものを見るんだ。相手の好きなものを。例えば僕の親友は自然を愛していた。僕も湖や鳥、木々達と深くつながっていた。相手の好きなものに対する態度に敬意を感じたなら、きっと君たちは親友になれる。あとは一本の木があればいい。その下でお互いを知れば友人になれる。深いつながりの友人は親や恋人に負けないくらい自分をこの世に結び付けてくれる。そこが湖のほとりならなおのことすばらしいね」
ククルス、雫を取ってくれるかい――
かつてあらゆる人から先生と呼ばれたその人は、柔らかい目はそのままに、枯れた白樺のようなぎこちなさで指をさした。
はちみつと様々な果物を漬け込んだ、この黄金色の飲み物を先生は「雫」と呼んでいた。私はらくのみに雫をうつして先生の口に運んだ。ぴしゃんと魚の跳ねる音。
湖畔はもっとも優しい世界の片隅だと先生から幾度となく聞いていた。実際にこのライダル湖畔の静けさは決して沈黙ではなく、慈しみであった。客と言えば郭公と猫くらいで、時間は最も遅く進み雨でさえ子守歌のようだった。窓の外は湖と山々と空が絵画のように佇んでいた。毎日タッチが変わる絵画だ。水面が弾く光はきらきらと、雲の流れはすうすうと寝息のように形を移していく。
眠ってしまった先生におやすみを言って窓を閉めた。といってもまだ昼下がりだ。私は昼食後の朗読をすませて先生の話し相手になり、頃合いを見計らって洗濯ものをとりこんで花とハーブの世話をする。繕い物をして夕食の支度を始めるころにまた一度様子を見に来るのだ。先生はもう、夕食をほとんど食べないので果物と粥程度になる。それから夕食の片づけと共に明日の「雫」を作るのだ。結構忙しい。それに広い屋敷は手入れに手間がいる。毎日違う部屋を掃除しても、一週間で最初の部屋には埃が積もる。