小説

『飲み込んだ涙のゆくすえ』間詰ちひろ(『浦島太郎』)

 史郎には、ひとつだけ心当たりがあったからだ。子どもの頃に、おばあちゃんだけが気付いてくれた、あの時、自分の中に閉じ込めた気持ち。この気持ちは、捨てちゃだめなんだ。絶対に。史郎は女にそう言って、手のひらに握っている箱を、ぎゅっと強く握った。
 女は小さくひとつ頷いて、「そう」とだけ言った。けれど、その顔には、すこしだけ優しさのようなものがにじんでいるようだった。

 
「あの、入ってくるときは、強引に引きずり込まれたんですけど。出るときはどうすればいいんですか?」
 史郎は女に質問した。女は上を見上げて、何度か瞬きした。
「帰りたい、って思えば、帰れるんじゃない? 多分。私はずっとここにいるから、出る方法なんて、知らないの」
「えっ……。ちょっと無責任ですよね、それって……」史郎は少しムッとした様子で、女に言った。
「大丈夫よ、だいたいみんな、帰りたいって念じれば、帰れるみたいだし」
 そう言って、女はひらひらと手を降りはじめた。
「鍵を持っているあいだは、何度でもこられるから。また、心に結晶ができたら、くればいいよ」
「結晶ができたかどうかなんて、分かんないんですけど……」そういいながら、史郎はだんだんと意識が薄れていくのを感じた。ただ、箱を落としてしまわないように、しっかりと握りしめながら。

 
「史郎くん、史郎くん」
 ほっぺたをペチペチと叩かれながら、名前を呼ばれていた。
 うっすらと目をあけると、そこには叔父夫婦が心配そうに史郎をのぞき込んでいる姿があった。
「ああ、目をさましたよ。良かったぁ」
 叔母さんが、ふうっと大きく息を吐いて安心したと言わんばかりの声を出した。
「……あの、俺、一体……?」史郎は起き上がろうとしても、思うように体が動かせなかった。
「蔵から全然戻ってこないから、心配になって見に行ったんだよ。そしたら、びしょびしょになって倒れちまってて。蔵の中は熱気がこもっちまうせいか、全身汗だくだったよ」叔父さんは、まだ心配そうで、史郎のおでこに貼られた冷却シートに手を置いた。
「すみません……。なんか、まぬけですね、おれ……」史郎は、弱々しい声で、叔父夫婦に謝った。
 このくそ暑い最中に蔵にいたんだ。熱中症で、倒れちまったんだよ、気にすることじゃないよ。そういって、叔父夫婦は、スポーツドリンクを用意してくれたり、着替えを持ってくるから、まだ横になっていなさい、と優しく解放してくれた。

 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10