「何も無いわ!
おやすみ、ピート!」
ティンクはオート式ドアの隙間をすり抜けるようにして、自身の部屋へと飛んで行ってしまった。
「マザー、申し訳ありません!
ティンクは決して、能力的には劣ってはいません。僕や他の機体よりも群を抜いて、戦闘力に秀でています。
彼女にはまだまだ、働いて貰わないといけません、何せティンクは撃墜王。恐怖の象徴としてもうってつけ……そう思いませんか、マザー」
老婆はしばらく黙ったまま、ただ微笑んでいた。指の一つも動かさず、笑顔を浮かべることに注力していたらしかった。
それが何分も続いた。何分も何分も続いた。沈黙の鎖が、ピートを四方八方から束縛する。
ピートは柔らかな威圧の獄中、その只中に立たされている。
もともと肉食獣が獲物を仕留める時に浮かべる、牙をむき出しにする行為が、笑顔というものの正体だった、とか。笑顔を浮かべる時、人間は思いのほか残酷な衝動に身をまかせる生物なのだ、とか。脳内の内蔵データが、ロクでも無いものばかり引っ張りだしてくる。
そう、マザーは人間だ。人間の女だ。細胞移植で老化を極端に遅くして、長い時を渡る術を身に付けた—-進化に適応した人間/ピートやティンクとは本質的に違う、生身のイキモノ/何を考えているか、わからない/自分達の思考の元になったものが、何を考えているか、など。分かるはずもない。
ただ分かるのはこの老婆の機嫌を損ねたら、どの水晶妖精も廃棄の運命を辿る。シンプルで明確な事実、ただ一つ。
ティンクの辿る運命だけが、気がかりだった。
あんなイカレでも、胸の無さをひたすらコルセットで誤魔化していても、血の色を確かめる信じられない悪癖があっても、彼女は自分の大切な相棒なのだ。大切なペア。二つで一つなのだ。エンゲージを交わした特別な機体………マザー/お母様/管理者よ、どうか、慈悲を!!!!
「ティンクの戦闘データのバックアップ、その収集がやっと終わったの」
ピートにはその言葉の意味が一瞬、理解出来なかった。
しかし。機械化された脳への情報伝達が滞ることは無く。
「明日の次の任務で、あの子を完全廃棄するわ。
でも安心なさい、ピート。
あの子の代わりは既に作成中よ。
後はボディの完成を待つだけ—-」