小説

『箱庭のエデン』沢口凛(『浦島太郎』)

 約束。つまり、亀山さんとの出会いから、今日までの出来事を、口外しないということか。
「わかってます。きれいに忘れます。忘れたくないけど、忘れる努力をしますよ」
 そんな会話を最後に、宇田島は亀山の用意した豪遊生活に別れを告げたのだった。

 翌日の夕方、アルバイト先に出勤すると、警備員を統括する警備室長に呼び出された。事前の連絡もなしに10日間も休んだことを咎められるのを覚悟したが、室長の態度は不気味なほどにうやうやしい。
「今日から、宇田島くんの時給は、日勤、夜勤ともに2割上がることになった。それと、バイトリーダー待遇になるよ。警備室で何か問題があった時は、速やかに僕に報告してほしい」
「2割?いきなり2割ですか?」
 予想外の展開に状況が飲み込めない。
「上とも相談したんだけど、君が希望するなら、会社としてはいつでも正社員として雇うつもりだから」
 これもすべて、亀山の影響力だというのか。鶴の一声ならぬ、亀の一声。彼の牛耳る闇社会とは全く無関係に見えるこのちっぽけな警備会社さえも、いとも簡単に動かしてしまった。
「なぜ、急にそんなことになったんですか?」
「それは…。僕の口からは言えないんだけどね、とにかくこの会社は宇田島くんを必要としているということは理解してほしい」
「わかりました。ありがとうございます。これからも真面目に働きます」
 腹の底からこみ上げる笑いをこらえるのに必死だった。まだ少しは夢の続きを見ていていいのかもしれない。

 しかし、そんな夢が唐突に終わりを告げた。原因はツイッターだった。元の生活に戻って10日ほど経った頃のことだ。
 宇田島は、現実社会で接点のある人間とは一切関わりを持たずに、細々と続けている匿名のツイッターアカウントを持っていた。見ているテレビ番組の感想をハッシュタグをつけてつぶやいてみたり、日々の生活の愚痴をぶつける程度のものだった。
 ある夜、「#飯テロ」というハッシュタグがバズっているのを発見した。人々の食欲を刺激する美味しそうな料理の写真を自慢気に見せ合うというものだ。どの飯テロが一番強烈か、つまり、どの画像が一番豪華で美味しそうに見えるか、の競い合いに発展していた。舟盛りの写真もあった。しかし宇田島が先日、サユリの店で食べたあの舟盛りよりも大きくて豪勢なものはない。自分の持っている画像よりもはるかにしょぼい写真が、やたらとRTを稼いでいる。ライバル心に火をつけられた宇田島は、思わず画像をツイートしてしまった。「#飯テロ」というハッシュタグをつけて、人生で最も豪華だった食事の写真を。画像は瞬く間に拡散され、その勢いに焦った宇田島はすぐに画像を削除した。フォロワーなどほとんどいない自分のツイートでも、画像にインパクトがあればRTされるのだということがわかっただけでも満足だった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10