小説

『箱庭のエデン』沢口凛(『浦島太郎』)

「それは、絶対に出来ないよ。ここでの暮らし自体が、あなたにとっては、なかったことになるんだから」
 この高級ホテルで過ごした日々と同じように、サユリとの関係も泡沫だったということか。これが本気の恋愛だと思っていたつもりはないが、契約終了とばかりにあっさり清算できるほどドライになることはやはりできなかった。
「別の形で知り合っていたら、宇田島さんの彼女になれていたのかな」
 けなげな涙まで見せながら、サユリは宇田島の首に両腕を回し、惜別のキスをした。そして、耳もとでこう呟いた。
「例の約束、忘れちゃダメだよ」
 これが、サユリとの最後の会話だった。サユリを部屋に残し、宇田島は10日間を過ごしたスイートルームを後にした。

 ホテルから新宿駅まで、例のベンツが送ってくれることになっていた。ロビーに降りると、亀山が待っていた。会うのは、初めて会ったあの夜以来だ。あのときと同じように、あまり高くはなさそうな服を着ている。宇田島も亀山も、高級ホテルのロビーにはふさわしくない風貌だ。
「亀山さん。俺…、何とお礼を言ったらいいのか」
「いや、私にとっては命を救ってくれた人への恩返しなんだから。まだまだここで楽しんでくれて、構わなかったんだけどね」
「いや、もう充分です。これ以上ここにいたら、人としてダメになります」
「ははは。そういうものかもしれないな」
 そして亀山さんは、遠くを見るようにして言った。
「宇田島さん。またいつでも会いに来てくれと言いたいところだが、それは出来ないんだ。理由は訊かないでくれ」
「はい。わかってます」
「これが今生の別れになってしまうわけだが…。実はあんたのバイト先にちょっと電話をしておいた」
「バイト先?前川ビルですか?」
 そのバイト先には、10日前に無断欠勤をして以来、全く連絡をとっていない。「当分行かなくていい」と亀山からは伝えられたが、さすがにもうとっくにクビになっているはずだ。
「あんたはあのビルの警備員を4年も務めているのに、いっこうに時給が上がっていないそうだな」
「そんなことまでご存じなんですか…」
「きっと明日から少し、待遇が変わっているはずだ」
「俺にはまだ働き口があるということですか?」
「もちろんだ。私のせいであんたに迷惑がかかるようなことは絶対にないようにしてある。あんたが約束を守ってくれる限りはね」

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