小説

『箱庭のエデン』沢口凛(『浦島太郎』)

 宇田島の言葉に一瞬足を止めたチンピラは、「クソが!」と悪態をつきながら、小男から奪い取った財布を投げて返した。足下に落ちた財布を、小男は自ら拾い上げ、パンパンと手で叩きながら砂を落としてジャケットの胸ポケットにしまった。
「ああ。助かったよ」
「災難でしたね」
「道を訊かれただけだったんだけどな。最初から私の財布を狙っていたらしい」
「被害がなくて何よりでした」
「あんた、強いねぇ」
「昔ちょっと格闘技をやっていたんですよ。ただ、3人同時にかかってこられたら、まずかったでしょうね」
 宇田島が苦笑いしながら言うと、小男もニヤリと笑った。
「あんたに礼をしなくちゃならん。ちょっとつき合ってくれ」
「いや、電車がなくなると困るんで、もう帰りますよ」
「明日は早いのか?」
「バイトは夕方からですけど」
「ならいいじゃないか」
 そう言って、宇田島の返事を待たずにスタスタと歩き始めた。
「え!?ちょっと!」
 仕方なく小男の後を着いていく。
 歌舞伎町のはずれにある狭い路地の間を、小男は迷うことなく進んだ。この街で働くようになって4年になる宇田島だが、初めて足を踏み入れるエリアだ。自分は一体どこに連れて行かれるのか。
「この先に、何があるんですか?」
「まあ、来りゃわかるさ」
 小男は意味ありげに笑って先へ進む。そして、とあるビルの前で立ち止まった。
 歌舞伎町にはおよそ不似合いな、きらびやかで豪華なビルだった。薄汚い街並みからは明らかに浮いている。こんなところに、こんな建物があったとは。しかし看板や表札のようなものは一切なく、何のためのビルなのかは皆目わからない。小男は自動扉の横にあるパネルに掌をかざしてロックを解除するとビルの中へ入る。やたら毛の長い赤絨毯が廊下の床を覆っている。無言でエレベーターに乗った。何の匂いかわからないが、とてつもなく高級な雰囲気が漂っている。
 さすがに説明を求めたくなってきた。
「ここ、どこなんですか?ていうかおじさん何者?」

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