小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 その後、妻は静かに衰弱していった。公園の桜は冷たい長雨に降られて、あっさりと盛りを終わらせてしまった。妻も同じ頃に亡くなった。雨音に紛れるようにして、静かに息を引き取った。

 それから一年が経った。
 母は段々と元気を取り戻して、今では妻の位牌に手を合わせながら「もっと良くしてあげればよかったねぇ」なんて、今更な事を言っている。僕は解雇までの経緯に同情してくれた人の口利きで、何とか新しい職を得られた。
 あの公園では、今年も桜が満開になっている。
 僕は一人でそこへ行く。風に吹かれてざんざん揺れる、桜の枝の下に立つ。厳然と立つ時計塔の、鏡張りの柱を見る。
 そこには僕の妻がいる。
 僕の背中におぶさって、風に黒髪をなぶらせて笑い、僕の首に、細い指を食い込ませる妻が。
 妻に乞われて僕は走る。息を詰まらせ、頭に血を上らせて、桜の花を踏みにじる。
 妻が高らかに笑う。首を絞められ息を詰まらせながら僕も笑う。妻が喉を搔きむしって、もっと早くと歓声を上げる。
 満開の桜がざんざん揺れる。風がゴウゴウ鳴っている。桜吹雪が舞い散って、名残り雪がどんどん積もる。
 愛しい妻の為なら、僕は何だって出来た。
 僕は両目を眩ませて、妻を背負って桜の下を駆け抜ける。

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